岩村町歴史シリーズその4 
明治・大正の女傑 下田歌子女史 

  
●「明治・大正の女傑」才色兼備の女性 女子教育に一生を捧げる  

 下田歌子女史は女傑と表現するのに低抗を感ずる程の文字どおり才色兼備の女性である。日本有数の一大私学となった実践女子学園の創始者であり、歌人として名をなし、愛国婦人会長をつとめて女子啓発と社会に貢献し、源氏物語他の多くの名著をもつ文学者でもある女史は、熱弁家であり、やはり明治大正の日本の未曽有の女傑といわねばならない。
 女史は女子教育に生涯をかけたが、3つの黄金期があったという。その1は宮中女官時代、2が華族女学校女監時代、そして3が愛国婦人会長時代である。
 実践女子学園では下田歌子女史を学祖と呼び、現在では中学校・高等学校・短期大学・女子大学・大学院をもつ一大私学になり、創設以来5万余名の卒業生を世に送り出した。歌子女史の建学の精神を体した卒業生は、教養高い有能な女性として、それぞれの分野に活躍しており、これはいまなお下田歌子は日本に活きているといえることである。

 
●生いたち 
 
 女史は安改元年(1854)8月8日、美濃国(岐阜県)恵那市岩村町で生れた。岩村藩士平尾■(金ヘンに柔)蔵の長女で幼名を鉐(せき〉とよび、幼特からきわめて聡明であった。
 平尾家は代々学者の家で、曽祖父は平尾他山と号し、太田錦城の門人で岩村藩校知新館の教授であり、高50石郡奉行であった。詩文をよくした。祖父は東条琴台で、先哲叢談続篇その他数十巻の著書をもつ碩学であった。父■(金ヘンに柔)蔵も学者で知新棺の教授であった。温厚な一面、勤皇の志が厚い人で、岩村藩は徳川幕府の親藩であった関係から、佐幕党の勢力が強かったが、時勢を見る限のあった■(金ヘンに柔)蔵は、それに対抗して勤皇派の中心人物となった。そのため2度も幽閉処分をうけた。
 女史にはこうした学問の家の血、そして烈々たる志士の血が流れていたのである。■(金ヘンに柔)蔵の幽閉は安政4年(1857)からと慶応3年(1867)からとの2度にわたり前後8年におよび、はげしい幕末の風雪は、きびしく平尾家へのしかかった。幽閉は主として自宅謹慎であったが、時には岩村城内へ連行されて留置されることもあった。幕末頃の士族の生活は苦しく、加えて家長が幽閉されていては、その暮らしはきわめて困難であったことが想像できる。
 しかし、この不幸な境遇のなかにも、鉐は美しくすこやかに育ち、郷党から神童の名をもってよばれた。
 5才で俳句をつくり、和歌を詠み、7、8才の頃には、みごとに韻(いん)を踏んで漢詩を賦した。 

  夏の夜や蛍の出るを待つ子ども
  夕立のねぐらにまようことりかな
  初雪や見ているうちにきえかかる 

 7才のときの俳句で、童心の詩情がくみとれる無邪気な句である。読み書きの手ほどきをしたのは祖母の貞であったが、貞もまた多才多芸で、鉐にきびしい家庭教育をした。鉐は豊富な蔵書を読みあさり、まるで書籍の虫であったというが、少女にしては並はずれた読書ぶりで、次第にその頭脳を多彩的なものにし、とくに詩的な情操をより豊かに盛りあげていった。やがて上京し宮中に仕えると、平安期の女流歌人にもまがう華麗な歌をつくり、「源氏物語」の講義は天下一の定評を得るにいたる女史独自の文学世界は、少女期に培かわれていたと思われる。
 やがて明治維新の大業がなされ、越後(新潟県)高田にいた祖父東条琴台は明治3年に新政府から宣教使少博士の官位を与えられて東京に戻り、父■(金ヘンに柔)蔵も、その年に宣教使史生の職をえて上京した。平尾一家にもようやく春の光がきざすかに見えた。


●父のもとへ上京 
 
 明治4年(1871)4月8日、父のあとを追って上京をすることになった。時に18才(数え年。以下年令については数え年にて書く)であった。
 上京の同行者は平尾家に50年余も仕えた老僕とその娘であった。この旅のことは「東路の日記」に多くの歌とともに記されているが、尾張・美濃・三河の国境で、 

  綾錦着てかへらずは三国山
  またふたたびは越えじとぞ思ふ 

の一首を詠んだ。あくまでも向上の志に燃えて、あわただしく移り変りゆく明治維新前後の世相を眺め、都を目指して郷関を出た才女鉐の、すさまじいまでの気迫がそこに読みとれるのである。
 東京では旧岩村藩主松平候の上屋敷の長屋に父とともに生活をした。この年の冬に、岩村に残っていた祖母の貞、母房子、弟■(金ヘンに帝)蔵も上京してきて、久しぶりに一家水入らずの生活ができるようになった。しかし、祖父琴台の著書「聖世紹胤録」が、明治政府に用いられた平田学派の排撃するところとなり、祖父も父も官職を一時辞することになってしまった。鉐は一家の苦境を切りぬけるため、家人に内証で近所の凧店の主人に頼み、凧の上絵を書いて若干の報酬をえて、家計の助けをしたという話も伝えられている。
 


●宮中へ出仕 
 
 明治5年、19才で思いがけなくも宮中の女官に登用され、女傑下田歌子への幕あけとなった。宮中の女官といえば、遠い昔から公卿、諸侯等の堂上貴族出身の女性に限られていたが、一介の士族、一学者の娘が召し出されたのである。明治新政府は宮中の刷新をはかり、官制を改革し、旧来の女官の権勢をそぐことも考え、民間からも才媛を起用し、新風を吹き込もうとして、はしなくもあげられた一女性が平尾鉐であった。
 この無名の一士族の娘を女官に推せんしたのはだれてあったろうか。選考の事情ははっきりしないが、鉐が作歌の指導をうけていた八田知紀は、当時、宮内省出仕で歌道御用掛の地位にあったので、彼か、あるいは八田の高弟高崎正風ではなかったかとされている。
 宮内省15等出仕ヲ命ス─ これが辞令で明治5年10月19日に宮中へあがった。

 


●昭憲皇太后から「歌子」の名を賜う 
 宮中へ出仕した感想をつぎのように詠じている。 

  敷島の道をそれともわかぬ身に
  かしこくも渡る雲のかけ橋 

明治天皇は非常に和歌を好まれ、生涯に何万首といわれる御製を残されたが、陸下は歌のたくみなこの新参下級女官に目をかけられた。宮中入りをして最初に迎えた正月の2日、大内山は朝がた雪に見舞われた。天皇は鉐に作歌を命ぜられたところ、 

  大君のたまのみ声のかからずば
  音なき雪をたれが知るべき 

と、その当意即詠は見事なもので、天皇をはじめ側近は感嘆した。
 やがて春を迎え「春月」という御題を賜った鉐は、次の2首を詠進した。 

  大宮の玉のうでなにのぼりても
  なほおぼろなり春の夜の月

  手枕は花のふぶきにうづもれて
  うたたねさむし春の夜の月

「手枕」の歌は平安歌人の作品と比べても少しも遜色のない秀歌で、宮中の関係者の讃美をあつめた。皇后(後の昭憲皇太后)も、この歌に非常な感銘をうけられ、今後は歌子と名乗るがよいとのお言葉があり、鉐を改めて歌子とした。
 宮中において才色群を抜いた歌子の名は、やがて民間にも歌人として知られていったが古いしきたりの多い宮仕えは何かと苦労も多かった。
 明治12年11月、26才でその任を辞するまで8年間宮中にあったが、この間にフランス語を仏人セラゼンに学び、和漢洋学を加藤弘之、福羽美静等に学び、ますますその教養を深めるとともに、先輩税所敦子と厚い親交をむすんだ。
 
 


●下田猛雄と結婚 

  明治12年11月に病気のため宮中奉仕を拝辞して平尾家へ戻り、12月に下田猛雄と結婚した。病気のためというのは表向きの埋由で、実際は結婚のためであった。天皇も皇后も歌子の退去を非常に惜しまれた。
 夫君は伊予丸亀5万1千石の藩士で、若くして一流の剣士としての名があり、岩村藩へも武者修行の一団をひきいて来たことがあった。これが縁で猛雄と父■(金ヘンに柔)蔵は知り合い、歌子の結婚へとつながったのである。しかし、この結婚は不幸で、ほどなく猛雄は病床につき、明治17年5月に死去するまでの4年余りを、病夫にかしずがねばならなかった。
 重病の夫を看とりつつ、挫折感を克服しようとする賢明な歌子は、子爵鳥尾小弥太に禅学を学び、禅の妙を識って、さらに教養の厚味を加えたのであった。
 


●桃夭女塾の創設 女流教育家への出発 
 
 明治14年、歌子は桃夭(とうよう)女塾を創設して、女子教育の第一歩を踏み出した。当時の女子教育は遅々たるものであって、時代にふさわしい女子教育者の出現が要望されていたことと、政府の要人として活躍していた伊藤博文、山形有朋、井上毅等は、歌子の才能を狭い一家庭に埋もれさせてしまうのを惜しみ、歌子に女塾の設立をすすめたことから、桃夭女塾が創設された。
 女塾では塾長の歌子を中心に国文、漢学、習字等が教えられ、ことに源氏物語の講義と作歌の指導に力がそそがれた。この女塾には伊藤博文や井上毅の令嬢も通ったことから評判となり、上流家庭の子女が多く入塾した。伊藤公や土方伯等も参観に来て、それ等の人々と文事や政治を論談する機会にも恵まれた。歌子はまだ28才という若さであった。
 


●華族女学校の創設 
 
 明治17年5月、夫下田猛雄逝去、行年39才。同年6月、祖母貞刀自逝去、行年89才。
 同年7月「宮内省御用掛」の辞令をうけ、華族女学校の創設にあたった。翌18年11月、昭憲皇太后の行啓をうけて開校式をあげ令旨を賜った。この時に歌子が教師を代表して祝詞を奉答した。歌子は開校式まで東奔西走し、しかもその間に宮内省蔵版「和文教科書」3巻を編著、出版した。
 華族女学校の校長は、西南戦争のとき熊本鎮台司令官として勇名をはせた谷干城であった。この谷校長が農商務大臣として入閣したあと、歌子が学監となって校長事務を代行したが、この多忙の間に「小学読本」全9冊を編著して出版している。
  


●海外へ女子教育視察 

 明治26年9月10日、横浜を船出して欧米へ視察の旅に出た。宮内省からイギリス皇室の皇女御教養事情の調査と、各国の女子教育を視察するための海外出張を命ぜられたのである。時に40才であった。パリーを経てロンドンに渡り、下宿して私立女学校へ通い勉学にいそしんだ。明治28年にバッキンガム宮殿においてビィクトリア女王の謁見を賜ったが、日本からたずさえてきた十二単の衣装を身につけ、王朝時代の女官そのままの姿で宮殿の客となった。そのあと、ベルギー、ドイツ、イタリア、スイス、アメリカ、カナダ等を歴訪して帰国した。
  


●帝国婦人協会の創立 実践女学校と女子工芸学校の創立 
 
 満2年にわたる外遊を終えて帰った歌子はもとの華族女学校の学監兼教授にもどって学園の改革などを実施した。
 明治31年11月、帝国婦人協会を設立した。これはひろく一般の婦人に知識を授け、技能を与え、品性をみがかせ、自活の道を講じて生活を改善させようという、画期的な大事業であった。帝国婦人協会は、ひろく全国に組織を及ぼし、のちには愛国婦人会、婦人矯風会などの各種団体が設立されたが、帝国婦人協会はその先駆をうけたまわったものであった。協会は各種の事業を企画して実施したが、教育部門のうち、実践女学校と女子工芸学校の2つを開校させ注目された。
 開校当時、わずか生徒40余名をもって発足したが、これが現在、日本有数の私学となった実践女子学園のスタートであった。この実践女学校は女流教育の第一人者をもって鳴る、下田歌子の名声をしたって年ごとに入学者が増え、発展の一路をたどった。
 中国からの女子留学生を受け入れ、明治44年頃には、その数、55名におよび、その中には女流革命家として活躍し、21才で刑死した有名な秋■女史もいた。
 明治39年4月、華族女学校は廃止され学習院女子部となった。華族女学校創立以来20年余り、学監として努力を続けた歌子は直ちに学習院教授兼女子部長の要職についた。
 しかし、翌40年の11月、後進のために道を譲って勇退し、実践女子学園の経営に専心することにした。長い間にわたる官学生活と訣別し、思い出深い永田町の官舎を去って非職の軽やかな身を青山北町の私邸へ移したのである。
  


●愛国婦人会長に就任 
 
 やがて明治の世は終り大正時代を迎える。歌子は、実践女子学園の園長として才腕をふるい、さらに学園を発展させた。
 大正9年9月、66才の時に、愛国婦人会長に就任した。愛国婦人会は日本最大の婦人組織で、肥前唐津生まれの熱血女性、奥村五百子によって興された。初代会長は公爵岩倉夫人久子で、代々華族が会長をつとめたが、5代目を歌子がひきついだ。総裁には皇族の妃殿下を推載し、非常な権威をもっていた。
 美濃の一士族の娘が、ここまで自己の地歩をあげて来たことは、誰もが夢想だにもしなかったことであろう。歌子はこの会長を昭和2年4月まで、2期満6年半もつとめて晩年を飾った。
 学習院の女子部長となった頃の院長が乃木将軍で、歌子と乃木将軍とは性格的にあいいれず、意見の相違も避けられなかった。女子学生の服装の問題でも、かなり激しい論争をし、世間では「乃木将軍はロシアに勝って歌子に負けた」とからかったが、学習院勇退の一因でもあったかとも思われる。歌子が女子学生に常に教えていた有名な言葉がある。「娘のときは端麗であれ、嫁にいったら艶麗であれ」というもので、あくまで謹厳主義の乃木将軍院長とは対立感も生れよう。
 


●「学園の母」逝去 
 
 昭和11年10月8日午後11時 83才(満82才)の生涯を静かに閉じた。天皇、皇后、皇太后三陛下より祭資料を賜わった。10月13日、実践女子学園では盛大な校葬をもって「学園の母」の死を悼んだ。
 女史の遺体は東京音羽の護国寺墓地に埋葬され、12月に故郷岩村町乗政寺山に分骨を埋葬した。
 昭和12年岩村城山麓の生誕地に建立された「下田歌子顕彰碑」は、地元岩村町婦人会が毎月清掃を続けてその徳を慕っている。また歌碑のある庭には20数種の植木が植えられて、いつ訪れてもすがすがしい。
  

明治・大正の女傑 下田歌子女史(岩村町歴史シリーズその4) 

(ご協力)小川鈴一 堀武義 高村仁 山口典子 浅見専一郎 三谷栄一 実践女子学園
(写真)杉浦輝昭
(著者)樹神 弘
(発行)岐阜県恵那市岩村町 岩村公民館
 
警 告
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