石室千体仏の創立と由来

 石室千体仏は、実は経塚である。
1632年(寛永9年)に岩村城の藩主松平乗寿(のりなが)が岩村城の鎮護と領地の住民の安泰繁栄を祈願して創立したものである。乗寿は菩提寺であった龍厳寺に命じて、浄土経千部を石筐に収め、地中深く埋蔵した。その上に石室を設け、千体の阿弥陀像を安置した。石室は千体仏の方が有名になっているが実は、前述のように、写経を埋め五輪の石塔を建てる方式を変えて石室を置き、千体仏を安置した経塚である。
経塚の起源は平安時代の慈覚大師にはじまるといわれる。法華経を写経して土中に埋め、塚を築いて、その上に五輪の塔を建てて供養したもので、宝筺印塔を置くものである。その目的に埋経供養の功徳によって後々まで永く衆生に利益せしめんとした願いが込められたものである。もともとインドで行われた仏教の伝習であったが、日本では平安時代から行われ始め、中世にかけて盛んになり、この辺りにも数多くの経塚が現在まで残っている。
 寛永9年9月15日の松平乗寿による供養の時は、15日間にわたり領民愛撫の誠を示すため穀物を配布されたという。その後、藩主が丹羽氏にかわった約110年後の間に石室千体仏は荒廃してきてしまっていたので、1741年寛保元年、松平乗寿のひ孫にあたる藩主松平乗賢(のりかた)が大給松平本家の下総国佐倉藩主(千葉県佐倉市)松平乗邑(のりさと)と協力して修復再営した。再営開眼供養は、寛保元年4月10日に行われ、乗政寺住職を首僧として20数人の僧衆によって荘厳な儀式が15日間続けられたという。

城主説明
松平乗寿(のりなが)
慶長19年15歳で父親の後を継ぐ。大坂冬の陣、夏の陣の両方に美濃の将士を率いて出陣し大いに戦功を挙げた。寛永15年4月遠州浜松へ国替えとなる。慶安4年に老中に抜擢されている。

松平乗賢(のりかた)
歴代藩主の中で最も名君の誉のあった人。父乗紀(のりただ)が知新館を建て佐藤周軒を招き儒員とし、乗賢の教導に任じた。英才教育を受け教養のある名君となり、幕府の老中に抜擢され、領地も1万石加増され3万石となった。
 松平乗賢(のりかた)と協力して石室千体仏を再営させた松平乗邑(のりさと)の息子松平乗佑(のりすけ)は西尾藩主(現愛知県西尾市)、弟松平乗薀(のりもり)は岩村藩主と、兄弟でそれぞれ藩主を務めていました。
その縁あって、平成10年12月に愛知県西尾市と岩村町は「ゆかりの郷」協定を締結しました。




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