歴史ひとこと No.1

ねね
1548?〜1624。北政所。高台院。杉原定利の娘。浅野長勝の養女。秀吉の正室で
あり、いわゆる糟糠の妻。「才知勇気世に優れたる女」で「極めて思慮深く稀有の
素質を備えている」、才色兼備の人と資料は口を揃えている。浮気好きの亭主で
ありながらも、夫婦仲は非常によく、天下人となっても諸大名の前で早口の名古
屋弁でケンカを演じるというほほえましい面もある。が、子に恵まれず、淀君に
奥の実権を奪われる格好となる。秀吉没後は隠棲。徳川家から隠居料一万三千余
石を給される。
加藤虎之助や福島市松の「おかかさま」家計をやりくりしながら、彼らを秀吉の
旗本として育てあげた。子宝に恵まれなかったことと、夫が出世し過ぎたことが、
彼女の不幸の端緒である。関ヶ原の戦いのとき、武断派、すなわち北政所派の諸
将が家康に従ったのは、彼女の意向にも拠った。とはいえ、豊家滅亡を望んでい
たわけではない(当たり前か)ことは大阪の陣の際に、大阪城に説得に向かおうと
した史実(家康に止められて果たせず)からもわかる。晩年には彼女が育てた恩顧
の諸将にも先立たれた。友人である前田利家室おまつ(見姓院)が家名を保てたこ
とを考え併せれば、彼女は決して幸福とはいえない。
平成11年4月1日

能登 (のと)
現在の石川県北部、能登半島の大部分。室町期の守護は畠山氏だったが、在京す
る守護に代わって守護代遊佐氏が実務にあたった。のち、守護畠山氏は下国して
戦国大名化への基礎を固め、内紛や一向一揆を克服、また京から多くの公卿、禅
僧、歌人などを招いて、能登は文化的にも繁栄する。しかし、畠山氏の支配にも
やがて動揺が生じ「畠山七人衆」と呼ばれる重臣たちが主導権を掌握する。その後
越後の上杉謙信に能登畠山氏は滅ぼされるが、信長と結ぶ旧臣の抵抗により上杉
氏の能登支配も挫折。信長により前田利家が配されることとなった。
腐れ武将の産地。守護大名の権威が無実化したが、戦国大名になり得る器量のあ
る人物が出なかった地である。
平成11年4月1日

馬場信房 (ばばのぶふさ)
1514〜1579。民部少輔。美濃守。信春。武田四名臣の一人に数えられる名将。
信虎、信玄、勝頼と、三代、四十数年にわたって武田家に仕え、数え切れぬほ
ど多数の戦に参戦したが、ただ一つのかすり傷さえ負わなかったという。
多くの勲功を上げた信房は、戦陣の秘訣として次のような言葉を残している。
「一、味方が勇んでいるときは、先を争って働くべし。味方が臆している日は
功に焦ると早死にする。二、味方の歴戦の勇士と仲良くなり、彼に習って戦う
こと。三、四、敵の兜や鎧をよく見て重要人物と思われる者を討つべし。五、
敵の勢い盛んなときは耐え、衰えたら一気に攻め込め」以上五ヵ条からなる戦
訓は、信房が実践経験から学んだものであった。そして、自らも「戦場常在」を
座右の銘に、つねに先鋒として戦い続けた。
長篠の合戦では、武田軍の殿軍を務め、味方が無事退却するのを見届けたのち、
単騎織田軍に突撃し、壮絶な最期を遂げた。
平成11年4月1日

鉄砲 (てっぽう)
武器。現代でも、ライフル、カービン、突撃銃、機関銃、ピストルなど、様々な
ヴァリエーションを展開、進歩している銃器は、歩兵の主力兵器の座を譲りそう
にない。
戦国を変えた革命的な武器。種子島に伝わるや、紀州や堺にもたらされ、生産が
開始された。従来の弓矢と比べて、殺傷力、射程距離が増大。戦国大名たちは先
を争って買い求めた。
鉄砲伝来より戦術革命が起きた。迎撃戦が容易になったので、まとまった指揮が
取りやすくなった。また個々の働きに頼らざるを得ない戦闘法から、より組織的
な集団戦法を取るようになった。防御兵器として有効な鉄砲は、築城術にも影響
を与えた。平地でも、塀に銃眼をこしらえれば、十分防御でき、今までの山城か
ら、交通の便のよい平城へ移行した。このことは城下町を中心とした商工業の発
展にさえも影響を与えたといってよい。
ただし、欠点もある。装填に時間がかかり、連射が利かないこと、移動中の装填
が無理で使用が限定されること。雨天では役に立たないこと。火薬の原料硝石は
輸入品であり高価であること。
ハードに欠陥がある場合、それを運用するシステムで補えばいい。この発想が信
長の鉄砲三段撃ちである。しかし、江戸時代の長年の平和で軍政は何一つ変わら
ず、戊辰戦争でも戦国時代さながらの鉄砲隊で戦った藩もあった。
平成11年3月31日

今川義元 (いまがわよしもと)
1519〜1536。駿河、遠江の大名。将軍職継承権持つ足利、吉良、今川家のうち今
川家のみが戦国大名への転身を果たした。義元の父、氏親の代のことである。義
元は氏親の三男だったので、幼時に出家し、梅岳承附芳と名乗っていた。しかし
長兄今川氏輝が急死したため、異母兄と争った末、家督を相続する。高僧大原雪
斎を軍師に迎え、武田信玄と同盟を組み、北条氏康を圧迫。西に転じて織田信秀
を小豆坂の合戦で破り、その翌年には安祥城を攻略、松平竹千代(後の徳川家康)
を人質に得て、三河支配を確立する。1552年には尾張鳴海城を奪取して織田信長
を牽制、1554年には再び東に転じ、武田と連合していったん北条を攻めた後、不
可侵条約を結ぶ。ここに今川、武田、北条の三国同盟いわゆる「善徳寺の会盟」
が成立する。義元は駿河、遠江、三河の三国を領し、今川家は全盛期を迎える。
1560年5月、義元は2万7千の大軍を率いて西進する。織田の砦である丸根、鷲津
を順調に落とし、義元自身も桶狭間に向かう途中の、田楽狭間に陣を張った。こ
のとき、予想もしなかった織田信長の奇襲を受け、義元は奮戦虚しく討ち取られ
てしまう。42歳であった。
京風文化に憧れて顔に化粧を施し、肥満していたため何度も落馬したなど、陰口
をたたかれている義元だが、実際には「海道一の弓取り」の名に恥じない合戦好
きだ。異母兄義真をブチ殺して家督を相続するところから、信玄、氏康を向うに
まわしての老獪さといい、松平や織田にちょっかいを出すいぢめっ子ぶりといい、
戦国大名根性をいかんなく発揮しているというべきだろう。「顔に化粧」と「合戦好
き」は十分両立するのだ。田楽狭間の最後でも、義元は槍で刺されながらも相手の
膝を太刀で断ち割り、首をかこうとした小者の指を噛み切るワイルドさだ!ううん
セクシー!
しかしワイルドなだけじゃない。戦国大名今川氏の本領は、実はその領国経営に
ある。その伝統は義元の父氏親に遡るが、検地、知行制度、分国法の制定などの
新政策を、それもかなり徹底的に断行している。これらの方針は義元、氏真にも
受け継がれ、例えば氏親の定めた「今川仮名目録」三十三ヶ条に対し、義元も二十
一ヶ条を追加した。あの道楽息子で有名な氏真だって、検地に対する情熱は人一
倍だったし、単なる意地悪に終わった対武田塩輸送停止という経済制裁だって、
領国経営を真面目にやってなきゃ思いつかない奇策だと言えば言えるぞ!
義元クンってこんなにかっこいいのに、なぜ人気がないんだろう?一つは奇襲で
殺されちゃったのが、すごくマヌケっぽいからなんだろう。でもそこが「おごっ
てる」って感じでお茶目なのにね。それとも信長と家康っていう二大アイドル
をいぢめてやったからかな?でも義元クンってば妙に親切で、家康のことなんか、
結構ちゃんと教育してあげてるんだ。なにしろ自分の家庭教師だった太原雪斎先
生を付けてあげちゃうんだもんなー。そー言えばこの雪斎先生ってやたら持ち上
げられてるけど、それってきっと家康の先生してたからだよ。いくら偉い先生
だって、義元クンが採用しなくちゃただの坊さんなのにねー。
1560年の西進は謎めいた行動である。従来の局地戦とは異なった大規模な作戦行
動であることは間違いないが、まず上洛する名目がない。当時の状況から考え
て、上洛それ自体はさほど無理なくできるのだが、名目も地盤もないところで、
義元は何をしようとしたのか。これらの点から上洛=天下統一の目的があったか
どうかは疑問視されている。
平成11年3月31日

六角義賢 (1521〜1598)
左京大夫。佐々木承禎。近江源氏の流れで京極氏とならぶ名家。1549年、足利義
晴を奉じて上洛するも三好長慶に敗北。しかし1552年には長慶との間に和議成立、
義輝の帰京を実現した。1559年、六角と断交して織田と結んだ浅井長政と野良田
で激突、二倍以上の軍勢を擁しながら敗北する。1563年、子の義治が観音寺騒動
を起こし、戦国大名としての支配力を失墜。信長と対立して近江を追われ、ゲリ
ラ活動に身を投じるものの、一年にして降伏。その後28年間、何を思い、何をし
て過ごしたのかは不明。1581年に安土でキリスト教の洗礼を受けたらしい。いつ
の時代でも絶望の果てには信仰しかないということだろうか。
旧弊な守護大名の印象が強い六角氏だが、近江は先進地域。他の大名に先駆けて
城割、すなわち支城破却を行い、義賢は全国初の楽市を施行。子の義治の代には
分国法の「六角式目」を定めている。織田信長に一発でやられたものの、へたな
守護大名よりも、よっぽど進んでいたのである。ただ京に近すぎたこと、すなわ
ち寺社や幕府の影響がもろにかぶることと、英傑が家系から出なかったこと、つ
まり本気で天下取りをしようという発想を持つ人物が出なかったことが六角氏の
運命を決めた。秀吉・家康の治世では多数の近江人が活躍している。石田三成や
藤堂高虎、蒲生氏郷など。
平成11年3月31日

村上義清 (むらかみよしきよ)
1503〜1573。周防守。葛尾城主。村上氏は清和源氏の血を引く信濃の名門である。
義清は佐久、少県、更級、科、高井、水内の各郡を支配し、北信濃最強の武将と
謳われた。また、甲斐の虎・武田信玄に初めて苦杯を舐めさせた武将として、戦
国史にその名を残している。
1548年、佐久群を攻略した信玄と上田原で最初の対決。板垣信方、甘利虎秦ら錚
々たる武将が轡を並べる武田軍を、地の利を生かした戦法で撃破。また二年後、
堅城として名高い戸石城でも武田軍を打ち破っている。
しかし、義清の絶頂期はここまでだった。難攻不落といわれた戸石城が真田幸隆
の謀略によって陥落。北信濃の村上系の諸領主は次々と信玄に降り、本拠地の葛
尾城も自落。信濃を追われる身になってしまう。義清の人生はにわかに「浪花節」
的様相を帯びていく。
1553年、義清は越後に落ち延び、上杉謙信に助けを乞う。故地への帰還を夢見て
川中島合戦に二度参戦。しかし老将義清に昔日の面影はなく、越後赤沢の城で70
歳で息をひきとった。子・国清が故地奪還を果たしたのは30年後のことであった。
平成11年3月31日

蜂須賀小六
1526〜1586。正勝。彦右衛門。修理大夫。伝説では盗賊の頭目。本当のところは
濃尾国境の川筋衆。いわばフリーランスの土豪。武装集団である。斎藤道三と織
田信秀の抗争時代には、道三側に与力している。その後は反信長派の織田諸家の
味方をしている。一時、信長に属するが、家臣に絶対を求める信長を好まなかっ
たらしい。
半兵衛、官兵衛、七本槍に治部少補といろいろあるが、本当の意味で秀吉の股肱
といえば、この男しかいないだろう。秀吉出世劇の糸口となった墨俣築城に手を
貸して以来、秀吉に近侍。近辺の顔役である小六は美濃の豪族や地侍の調略の手
引きをし、譜代の家臣を持たない立身時代の秀吉に、具体的戦力を提供していた。
少身でありながら、主君の信長から一部将として扱われた裏には、蜂須賀党の存
在を忘れる事はできない。秀吉出世マジックのいわば「たね」である。
もう一つ。調略の名人秀吉は任を受けると、その地城で顔の利く近在の名士を最
初にスカウトし、その男を軸に調略、誘降を展開している。近江衆の説得には竹
中半兵衛、播磨では黒田官兵衛。その手法の第一歩が濃尾国境の顔役であった小
六であった。元来、親分肌の男である。若い衆に睨みが利き面倒見がいい。秀吉
の出世とともにその軍団が膨張するにつれ、小六はいわば番頭格の位置となる。
調略、外交はいうまでもなく、若い家臣団の統率にも手腕を発揮した。四国征伐
後、与えられた阿波一国を息子に譲り、最後まで秀吉の側にいることを選んだ。
太閤記の普及によって盗賊の親玉にされてしまった喜劇的人物?明治時代に華族
となった子孫は貴族院議長までつとめたが、ある時、つい明治天皇の珍しい煙草
を失敬したとき、「蜂須賀、血は争えぬのう」と笑われたという。これに発憤、
当代一の歴史学者に出自の調査を以来、みごと?に盗賊の親玉でないことを証明
してもらった。
平成11年3月28日

上田城の戦い
真田昌幸は本能寺変後の旧武田領を制した徳川家康にいったんは属したものの、
領土に関するいざこざから、1585年、上杉景勝に誼を通じた。怒った家康は、大
久保忠世、平岩親吉、鳥居元忠ら7千の兵で攻め寄せた。2千の兵で守る昌幸は、
地の利を活かしたゲリラ戦を展開、みごとにこれを撤退せしめた。神算鬼謀の智
将、真田昌幸の全国デヴュー戦である。これに対して徳川方は家康自身はともか
く四天王も参加せず、また兵力も少なめであった。おそらく小牧、長久手戦の戦
後処理中で主力を温存したかったのだろう。これが第一次上田合戦で、神川の戦
いとも呼ばれている。徳川勢を撃退すると昌幸は秀吉宛に臣従を誓うが、秀吉、
家康間に和議が成立し、一応真田家は徳川配下となる。
第二次上田合戦は関が原の役の地方戦の一つである。徳川軍主力といえる3万8千
の兵が総大将秀忠以下、榊原康政、本田正信、大久保忠隣らに率いられ中山道を
西進中に、真田昌幸、幸村親子2千が籠る上田城に当たった。無視しても構わな
いのだが、行きがけの駄賃に先年の屈辱を晴らそうと襲いかかる。開戦に先立ち
帰順勧告を送るが、昌幸はのらりくらりと返答を送らせたうえ、「じつは籠城の
支度のために返事を遅らせ申した。兵糧も入れ、戦備整いましたるゆえ、一合戦
お相手つかまつる」としゃあしゃあとしている。カッときたのは徳川軍だが、先
年の敗北もある。ここはセオリーどおりに青田刈り戦法をとった。これは城下の
田を刈って城内にいる兵の動揺を誘う戦法である。籠城兵は農兵なので黙ってお
れず出てくる、そこを迎撃するという算段。はたして、城内から飛び出してきた。
ここを逃さず攻めて叩く。ひともみ、ふたもみすると、多勢に無勢、真田勢は押
され、城内に逃げ込もうとした。勢いづいて我先にと追撃する徳川勢。そこえ城
門がガラリとあき、今度は本当の真田の精鋭が繰り出してきた。隊列が長く伸び
ていた徳川勢は散々に打ち破られ、秀忠の本陣まで危うくなった。ここを支えた
のは、のちに「上田七本槍」と呼ばれた勇士たちであった。徳川方は散々の敗北
のうえ、攻城の目算も立たず、美濃めざして去った。この主力部隊が関ヶ原の決
戦に間に合わなかったのは周知の通りである。
平成11年3月28日

大内義隆 (おおうちよしたか)
1507〜1551。大内氏は周防の豪族。室町時代に守護となり、勢力を伸長。義隆の
代には最盛期を迎え7国の太守となり、西国隋一の大名であった。が、文治を重ん
じたために、武闘派の重臣陶晴賢と険悪になり、謀叛を起こされ自害。
彼は類を見ない文人で、儒学詩歌に秀で有職故実に通じていた。さらにザビエル
に布教を許し、大陸貿易の影響もあって、居城山口の町は、京と大陸、西洋の文
化が融合し、独特の発展をとげた。
文弱のイメージが先行するが、若かりし頃は北九州に度々出兵しているし、安芸
守護武田氏を滅亡させ領国化している。さらに山陰の大大名尼子氏の居城月山富
田城まで攻め寄せている。1537年には将軍義晴から幕政参加の要請があり、その
気になったが、領国経営に専念するため、これを断念している。
献金官位大好きの田舎貴族。大陸貿易でゴマンと得た利益の使い道は文化振興だ
けでない。莫大な金額を朝廷への献金に使っている。当時の献金の東の横綱、織
田信秀に対し、西の横綱である。見かえりとして様々な官位を受領している。戦
国武将のステータスシンボルである左京大夫から始まって、筑前守、太宰大弐。
この頃は北九州の戦いが激しかった。左兵衛佐、兵部大輔、伊予介、侍従とつづ
き、最後は兵部卿。これ以上は近衛大将で、これは源頼朝が征夷大将軍になる前
に貰った官位なので、兵部卿が事実上、当時の武士の官位では限界に近い。
平成11年3月28日

菊亭晴季 (きくていはるすえ)
1539〜1617。右大臣。名門今出川家第十代当主。秀吉が権力を持つに至り抜け目
ないこの男は積極的に接近を図る。秀吉が無謀にも征夷大将軍になろうとして失
敗したのに目をつけ、関白の座を取るように勧めた。もっともここれは公家内で
の権力争いも関係あったらしいが。これによって秀吉は近衛前久の養子となって
関白となる。その後も豊臣秀次と娘を結婚させるなど秀吉のご機嫌伺いに徹した
が、秀次失脚に連座して、娘と孫を失い、自身は追放となった。のち許されて帰
位する。彼の死は豊臣滅亡後である。
前述のとおり秀吉関白就任のアイデアは彼による。よって、彼がいなければ秀吉
の伝記が「太閤記」となることはなかったのだ。公家からすれば成り上がりの武
家におべっか使うイヤな奴だが、いつの世でも、権門側なのに、成り上がりの実
力者に売官売名の斡旋をする、このテの策士はいるものなのである。
平成11年3月28日

九鬼嘉隆 (くきよしたか)
1542〜1600。海賊の頭領で合った彼が名を馳せたのはなんといっても毛利水軍と
の戦い「木津川口海戦」である。当時の規模から言えば超弩級戦艦といっていい鉄
甲船を率い、百倍に及ぶ毛利水軍を粉砕したのだ。これによって補給ルートを失っ
たため、石山本願寺は陥落したといっていい。関ヶ原では親子別々になって戦い、
西軍であったため、戦後自刃して果てた。
戦国サクセスストーリー、海の秀吉版といったところ。嘉隆の家系は九鬼本家で
はない。おまけに、「熊野十三水軍」(一口に熊野水軍といっても、浦々に頭目兼
綱元みたいのがいて、これが十三ほどあったのだそうだ)でも筆頭勢力ではなかっ
た。前項のように、流浪中に織田家の連中と知り合い、伊勢平定のとき熊野水軍
を束ねて、味方につけるため信長に登用された。以降の活躍は歴史に記す通り。
織田家中では、滝川一益と親しく、しずヶ岳の戦いでも一益に組している。もち
ろん、西国の平定を考えている秀吉にも重用された。関ヶ原後は、海賊のような
不穏当な徒は幕府の好みに合わないのか、摂津三田、丹波綾部と内陸部に転封と
なった。もっとも、海賊あがりの豪快な気風は残っていて、明治維新後に、先祖
の話をするにも恥ずかしいにわか華族が多出したが、やはり華族となったときの
当主は、「いやあ、うちは海賊あがりですから」と笑いとばしていたそうだ。
ちなみに朝鮮出兵では名将李舜臣にコテンパンにやられている。
平成11年3月28日

斎藤義龍 (さいとうよつたつ)
1527〜1561。新九郎。道三の長男。この義龍、異相の大男で、馬にまたがれば足
が地についてしまうほどであった。またその器も凡庸に見えたという。美丈夫で
才豊かな道三はこんな彼を常に疎ましく感じており、他の息子ばかり可愛がった。
義龍の生母は道三が譲りうけた土岐頼芸の愛妾深芳野。頼芸追い出しの名分とし
て、義龍は頼芸の子と道三が宣伝した。このことからも、父子の反目は次第に深
まっていく。
それでも1548年、義龍は道三から家督を譲られ稲葉山城主となる。しかし道三が
いずれは一番寵愛していた三男の喜平次に跡目を据え直すつもりであることを察
知すると、弟二人を謀殺、挙兵に及ぶ。国衆の大半がかつての主君土岐氏の血を
引くとされる。義龍側につく。その数一万七千。対する道三の下に集結したのは
わずか二千七百。両軍は長良川で激突したが、義龍の見事な采配ぶりを見て道三
は「これなら自分の死後も斎藤家は安泰であろう」と語ったとされる。道三も先
鋒竹腰道塵を討ち取るなど善戦するが、多勢に無勢、ついに敗死した。死後道三
の遺体は八つ裂きにされたが、このことからも義龍の憎しみのほどがうかがえる。
義龍は、1561年、病死。
平成11年3月27日

地球儀 (ちきゅうぎ)
球体である地球を立体的に現したもの。史上最初に作られた例は、紀元前160年
頃のギリシャにおいてであると伝わっている。
日本での布教を願うイエズス会修道士たちが、信長に献じた物の一つ。この世は
丸いという事実は、当時の日本人を大きく驚かせたに違いない。信長はこの地球
儀をいたく気に入っていたという。信長の野望が、このとき世界にも向けられた
とする説は、はたして正しいものかどうか…。
平成11年3月27日

加藤清正 (かとうきよまさ)
1562〜1611。主計頭、後に従五位下、侍従兼肥後守。幼名虎之助。秀吉の遠い血
縁であり、その縁で幼少より秀吉に仕える。しずヶ岳七本槍をはじめ、九州遠征、
朝鮮出兵等の武功によって、肥後半国25万石の大名に出世する。関ヶ原では東軍
に属し、隣接した小西領を攻めた。戦後、肥後52万石を領有。1611年に死去。徳
川サイドによる毒殺説もささやかれた。
石田三成との確執は、豊臣家臣の文治派と武断派の対立を象徴している。朝鮮か
ら帰国した際に三成が「後ほど、京で茶の湯等を馳走しよう」と言ったのに対し、
皮肉っぽく「我ら長き戦いで兵糧も尽きてな、稗でも炊いてお返ししようか」と答
えたと言う、犬猿の仲の典型的な例であり、清正は三成を恨み嫌うこと尋常でな
く、秀吉死後、細川忠輿、福島正則らとともに三成襲撃を企て、引退に追い込ん
でいる。
関ヶ原後も、豊臣家の恩は忘れず、1611年、徳川家康が成人した豊臣秀頼に会見
を命じた際にも、浅野幸長らとともに奔走、二条城での両者会見を無事終了させ
ている。この一時に象徴されるように、大阪の利益をはかりながらも家康に対し
ては恭順を貫くことが豊臣家存続の唯一の手段と考えていたのだろう。彼の死は
会見直後である。
愚直ながらも筋の通った生き方を貫通しえた武将。しかし、これはあくまでも日
本での見方である。朝鮮でも勇将としての評価はなされているのだが、彼らから
見れば狂った独裁者の忠実なる手先に過ぎない。
彼の手による熊本城は、三百年後の西南戦争で西郷隆盛率いる薩摩兵がついにこ
こを抜けずに敗れたほどの堅城であった。領内の治水に事績を残し、また日蓮宗
の熱心な信者で興隆につとめた。
平成11年3月26日

高坂昌信 (こうさかまさのぶ)
1527〜1578。幼名源五郎。弾正忠。武田四名臣の一人。大変な美貌から小姓とし
て信玄に愛された。頭脳も明晰で、深慮遠謀に長けた智将として活躍、北信濃の
海津城代を務めた。
三方ヶ原の戦いでは、勝ちに乗じて一気に浜松城を攻め落とそうとする諸将たち
の中にあって唯一人その愚を主張し、信玄もこれに従っている。自ら「逃げ弾正」
と称するほどの慎重派であった。長篠合戦では留守を守り、敗報を聞くや国境ま
で赴き、敗戦の惨めさを感じさせないよう勝頼に衣服等を着替えさせた。晩年に
「甲陽軍鑑」を書き残したといわれる。
平成11年3月26日

津軽為信 (つがるためのぶ)
1550〜1607。右京大夫。津軽地方の豪族。もと大浦氏を称し南部氏の支配下にあっ
たが、南部士氏内部の抗争を巧みに利用し勢力を伸長、中央政権への対処を誤ら
ず独立大名となり、関ヶ原戦後、近世津軽藩の藩祖となった。
奥州きっての梟雄。南部氏の支配下にありながら謀略、陰謀によって領土を拡張、
南部信直に先んじていち早く小田原参陣を果たし独立大名として認められた。当
然、南部側から見れば梟雄、江戸時代を通じて、評判は悪い。ただし民政に重き
を置いた仁君で、津軽人からすれば南部の悪政から救った英雄なのだ。明治維新
の廃藩置県で津軽は青森県、南部は岩手県、南部領で八戸付近だけがなぜか青森
県となった。が、いまなお八戸と青森の二都市間では対抗意識が残っているそうだ。
平成11年3月26日

柴田勝家 (しばたかついえ)
?〜1583。権六。修理亮。信長の筆頭家老格。はじめは信長の弟信行付きの家臣
で、謀叛に与して信長廃嫡を企むが、稲生合戦で敗北。許されて後は、率直な性
向より忠勤に励む。織田軍団の中核として数々の戦いに参加、「掛かれ柴田」、
「鬼柴田」などと渾名されるほどの武勇を示し、家中隋一の猛将と謳われた。越
前攻略後は、北陸平定軍の総司令官となり、北ノ庄築城、城下町建設にも腕を振
るう。与力の前田利家らも勝家のことを「親父さま」などと呼び、親しんでいた。
しかし、本能寺の変後は羽柴秀吉に主導権を握られ、しずヶ岳にこれと交戦する
も敗死。落城する北ノ庄城と運命をともにして自刃する。
秀吉がまだ士分でない頃から織田家の筆頭家老格である。秀吉なぞ眼中になかっ
たろう。ただ気質が合わないとはいえ、軽輩の秀吉を侮り蔑む言動をとるような
男ではない。よく小姑よろしくイヤミを並べる勝家がドラマなどで展開されるが、
勝家の気質からは考えにくい。勝家が秀吉を意識するのは、北陸遠征で与力につ
いた秀吉と意見が対立、秀吉が勝手に戦線離脱した事件からであろう。さすがに
心よくは思わなかったに違いない。とはいえ、それから顔を合わせる機会がどれ
だけあったか。山崎合戦の報は越前・近江境の柳ヶ瀬にて聞いている。清洲会議
で主導権を秀吉に握られたときの心情はどんなものであったろう。
勝家は、秀吉に内応したかたちとなった前田利家らを責めなかった。北ノ庄での
最期も男らしい。最期の夜に今生の別れと家臣と酒を酌み交わす。敵味方が見る
中で天守閣にて腹をさばき、首をわたすまいと爆薬で吹き飛ばした。終わりを全
うした武人である。
平成11年3月25日

角倉了以 (すみのくらりょうい)
1554〜1614。京都嵯峨の豪商。角倉家は京の三長者の一家で室町幕府御用医師だ
が、本業は土倉業。洛中帯座座頭職。つまり、西陣織の帯専売組織の代官である。
当時京には五千もの機織機械が動いており、その富は想像を絶するものであった。
江戸時代初期に東南アジアとの朱印船貿易を成功させた。
了以は京の自宅前を流れる大堰川を開削。そのおかげで、それまで陸運に頼って
いた丹波からの運輸は飛躍的に楽に大量に運べるようになった。ここに使われた
のが、船底が扁平な高瀬舟である。これを皮切りに富士川、天竜川、高瀬川など
の改修工事を受け持ち、江戸時代の河川交通発展の礎となった。
平成11年3月25日

関ヶ原の戦い
1600年、徳川家康が石田三成を中心とする豊臣政権派を一掃し、覇権を決定的と
した戦い。家康が上杉征伐のため東下したところを狙って三成を中心とする西軍
が決起し伊勢および美濃の諸城を攻略、さらに尾張へ進出しようとした。だが三
成の予想よりも早く東軍先鋒隊が尾張清洲城に集結、美濃岐阜城を攻略した。東
軍に対抗するため三成は大垣城を拠点に守りを固め西軍諸隊の集結を待ったが、
丹後田辺城攻撃隊の派遣、近江大津城の離反などで兵力の分散を強いられ、さら
に日和見的行動を取る毛利勢や小早川秀秋などにより西軍の足並みは一致しなかっ
た。一方家康は調略により毛利氏や小早川勢らを無力化し、ある程度メドが立っ
た9月1日江戸を発った。14日美濃赤坂へ進出した家康は大垣城を無視して大阪城
を攻めると喧伝、これにかかった三成は西軍主力を移動させ、翌15日両軍は関ヶ
原で激突した。戦いは一進一退の攻防が繰り返されたが小早川秀秋が東軍に寝返っ
たことにより戦況は一変し、東軍の圧勝に終わった。
天下分け目の決戦の代名詞。でも山崎合戦の主戦場天王山の方が語感がいいのか
よく使われる。
平成11年3月24日

大道寺正繁 (だいどうじまさしげ)
1533〜1590。駿河守。氏康以降三代に仕えた北条家臣。大道寺氏は平治の乱で死
んだ藤原信西の子孫と称し、早雲とともに駿河へ下向した御由緒家である。鎌倉
代官として寺社の管理、河越城将として腕をふるう。のち信濃上野方面攻略を担
当する。小田原の陣で上野松井田城を守るが、前田利家の攻撃を受け降伏、豊臣
軍の先鋒に早変わりした。秀吉はこれを不忠として、小田原開城後に切腹を申し
つける。
平成11年3月24日

毛利元就 (もうりもとなり)
1487〜1571。治部少輔。右馬頭。陸奥守。安芸の戦国大名。七歳のとき、毛利の
家来筋である井上一族に預けられる。五歳で母、十歳で父と死に別れた元就には
頼る血縁がなく、跡目を巡る家中争いの際も井上一族の支援を頼るしかなかった。
ゆえに元就は家来筋であるはずの井上一族に頭が上がらず、三十年にわたる「な
がながしきかんにん」を強いられることになる。徹底した謀略家に終始した元就
の生涯は、この屈折した生い立ちを抜きにしては語れないだろう。
毛利氏がまだ安芸一円を制覇するだけの勢力を持たなかった頃、西の長門、周防、
石見、筑前、豊前は大内氏の掌中に、また東の出雲、伯耆、因幡、但馬は尼子氏
の勢力下にあり、元就は挟まれた二大勢力にどう対するかという難題を抱えてい
た。まず元就は長男の降元を人質に出して大内氏を懐柔、1541年から43年にかけ
て、大内の援軍を得て尼子を退けた。ところが尼子を深追いした大内軍が出雲で
大敗を喫し周防へ撤退。元就の謀略は、二大勢力をともに弱体化させるという一
挙両得の成果を経た。
安芸守護職の武田氏を滅ぼした元就は、次に次男の元春を山陰との国境の吉川氏
へ、三男の隆景を瀬戸内海の小早川氏へそれぞれ養子に送り込んだ。これも毛利
の地位を安泰にするための元就の謀略であった。事実上、二家は毛利の分家であ
り世人はこれを「毛利の両川」と呼んだ。
十分な勢力をもった元就は、ここで人生最大の目標と思われる大事を成し遂げた。
重臣井上一族の粛清である。毛利家の中で大きな発言力を持つ井上家を押さえる
という目的とともに、家督相続以来の自らの「ながきかんにん」の復讐を果たし
たのである。粛清は徹底を極め、一族の長老元兼以下三十余名を殺害。毛利家中
は緊張感でピンと張り詰めた。毛利家は一致団結し、中国制覇への転機となる厳
島の戦いへとなだれ込む。
大内氏の重臣陶晴賢は、主人義隆を廃して大内氏の実権を握っていた。元就はま
ず密偵を大内氏のお膝下山口に忍びこませ、不穏な噂を流し家中を混乱させた。
そして厳島に宮ノ城という囮の城を築き晴賢をおびきだした。1555年、元就の策
略通り晴賢の軍は宮ノ城を攻めた。毛利軍は風雨の激しい暗夜を利用して百槽の
船で島に渡り、晴賢軍を背後から襲った。虚をつかれた陶軍は大敗、晴賢は自害
した。
元就は還暦目前にして西中国全体の太守の地位を築いた。そしてもう一つの天敵、
尼子氏の息の根を止めるため、孫の輝元を総大将に出雲へ大軍を送り込んだ翌年、
その結果を聞かぬまま波乱の生涯を閉じている。
元就が残した有名な逸話に「三矢の教え」というものがある。一本ずつの矢はすぐ
に折れるが三本まとめると折れないという教訓を三人の子に説いたというもので
ある。元就は毛利家当主として決して第一線から退くことなく、死ぬ間際まで激
務に次ぐ激務をこなしていた。自分以外に頼るものはいないという哲学を、元就
は自分の孤独な生い立ちから学んだのであろう。こう考えると元就最期の教訓も、
息子たちに対する頑固老人の冷や水ととれなくはない。子孫たちに天下取りの果
てしない夢を託しつつ、元就はその波乱の生涯を終えた。享年七十五歳。
斎藤道三と同世代。若き日に家臣が元就を中国の主になるよう祈ったと聞くと、
なぜ天下の主になるように祈らぬのかといったこと、老いて伏したときに若者た
ちへの戒めのために雪合戦をさせたこと、などエピソードが多い。地盤が一土豪
に過ぎず、青年から壮年期にかけて尼子、大内という大勢力が近隣に存在したた
め、戦国大名としてのスタートが遅れに遅れた。せめて最初から安芸一国の領主
であったか、もしくは三十年も生まれが遅ければ、天下を取る可能性が極めて高
かった男である。
平成11年3月24日

平将門 (たいらのまさかど)
?〜940。日本を代表するスーパースターの一人。承平・天慶の乱の中心人物とし
て関東で暴れまわり、ついには「親皇」まで称して独立国家建設を夢見た英雄。し
かし、その乱の原因は、安部貞任同様、女関係にあったという。坂東武者って
いったい...。
それでも英雄は英雄だ!というわけで、超人的な武勇を語る説話、伝承には事欠
かない。特に南北朝のような分裂ではなく、まったく新しい「皇」を称したのは、
後にも先にも将門だけであり、当時は蝦夷地とほとんど変わらない扱いだった
関東で覇を唱えたことは、関東人の心に、深く響くものがあったに違いない。だ
からこそ、頼朝以来、京の権威に対抗する政権は、関東に置かれたのだ。
しかし、やはり逆賊であるためか、将門の流れを汲むと称する武将は少ない。
相馬氏ぐらいのものだろうか。将門討滅で名を馳せた俵藤太秀郷流は多いのに。
将門の方がかっこいいよね。
平成11年3月23日

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