歴史ひとこと No.2

北条氏綱 (ほうじょううじつな)
1486〜1541。北条氏二代。早雲の子。幻庵の兄。早雲と氏康の名将二人に挟まれ、
とかく影が薄い…と、書いてある本もあるが独立した大名としての地位を確立し
北条氏が「関東の覇者」たる礎を固めたのは、他ならぬ氏綱である。管領上杉氏
と激しく戦ってついに川越城を奪取したのをはじめ、有名な国府台合戦や河東の
乱(どちらも第一次)に大捷、関東に支配を広げた。その一方で領内に検地を行っ
て支配体制を確立したり、古河公方足利晴氏に娘を嫁がせたりと、地盤固めも忘
れない。まさに「二代目」として最適の人物だったのである
ちなみに「北条らしさ」というものを作りだしたのも、氏綱である。そもそも
「北条」という性を用いたのが氏綱からなのだ。本来は伊勢氏であり、事実、父
早雲は終生伊勢という姓で通している。氏綱が北条姓を名乗ったのは、管領上杉
氏と対抗して関東で覇を唱えるために、鎌倉時代の執権北条氏の権威を利用しよ
うとしたからだろう。この改姓に際して、家紋も北条流の三鱗に改めている(もっ
とも執権北条家の三鱗は正三角形だが、小田原北条氏のそれは二等辺三角形であ
る)。また北条氏を象徴する虎印も、氏綱の代から用いられたと推測されている。
最後にもう一つ。北条といえば小田原城だが、そこに本拠を置いたのも、氏綱が
最初であるのだ。「北条」を語るときに必ずと言っていいほどあげられるものた
ちは、皆、氏綱が用意したものだったのである。
さて、この氏綱、花も実もある男だったというか、妙に己の美学というものを持っ
ていたようだ。信仰心の厚さは有名で、里見実尭に攻められて焼失した鶴岡八幡
宮を再建したことはよく知られている。もっともこれは一種の示威活動であった
とする見方が多いようだが。その他、遺言状の中で「合戦は勝たねばならないが、
どんな卑怯な手を使ってもよいというわけではない。卑怯な手段で領土を得ても、
のちのちまで嘲られるだろう」と書き遺している。「犬畜生と言われても絶対に
勝て」と語った朝倉宗滴とは対照的である。北条という姓を(悪くいえば)騙った
氏綱が、せめてその名を汚すまいと思ったゆえのことであったのだろうか。
平成11年5月11日

美濃 (みの)
現在の岐阜県南部。室町期の守護は土岐氏。足利義満は強大な軍事力と経済力を
保持する土岐氏を牽制する動きに出、それに対して土岐氏は守護代の斎藤氏に実
権を委ねるという形で領国を安定させていった。その後実権は斎藤氏下の長井氏
に移り、長井氏から出た斎藤道三が土岐氏を追放するに至るが、国内の混乱は続
き隣国の織田・朝倉氏等の侵攻が絶えなかった。1568年からは信長の支配下に入
り、ここを拠点に天下統一事業が進められるが、その死後は再び混乱が続いた。
慶長年間の石高は54万石。
平成11年5月11日

茶入 (ちゃいれ)
濃茶を入れる器のこと。陶製の子壷で、大きく分けて中国から渡来した唐物と、
日本製の和物、ほかに東南アジア方面の製と思われる島物と呼ばれる一群がある。
鎌倉・室町時代を通じてほかの唐物文化とともに数多く日本に渡り、国内におい
ても瀬戸でこれを真似て茶入がつくられた。喫茶の風習が盛んになる中で、茶入
は尊重され、その価値は信長・秀吉のころには、戦功の恩賞として臣下に授ける、
いわば国を与えるのと同等の価値をもつにまで至った。この風潮は江戸時代中期
頃まで続き、大名にとって名物茶入を持つことは、権威の象徴ともなったので、
実に大切に扱われた。
平成11年5月11日

高橋紹雲 (たかはしじょううん)
?〜1586。鎮種とも言う。大友宗麟配下の名将。吉弘鑑理の子。立花宗茂は実子で
ある。高橋鑑種追放ののち岩屋城主となり高橋氏を名乗る。道雪とのコンビは九
州最強と言われ、大友氏に敵対するものを次々とねじ伏せた。しかし、主家大友
氏は両雄不在の耳側の戦いで島津に大敗。さらに道雪死した後、島津勢は嬉々と
して、筑前に攻め込んだ。秀吉の援軍が来るまでの捨て石になろうと決めた紹雲
は岩屋城に七百六十三人で籠城する。押し寄せる島津勢は五万。島津の降伏の勧
告を拒否し紹雲は島津勢三千七百余を道連れに玉砕。紹雲がまさに命をかけた時
間稼ぎは、見事功を奏し、秀吉の援軍が九州に来攻する。これにより島津の九州
統一の望みは絶たれた。
まあ「忠烈の士」ということなのだが、当時の大友家臣は主家がぐらついたこと
もあり、島津方につく者が多かった。弱い主を見限るのは戦国の習いであり恥ず
かしいことではない。逆にダメ君主に使える方が物笑いの種になる。忠義に殉ず
るというのは江戸時代の朱子学の影響下での武士道のモラルである。息子の立花
宗茂の生き方といい、紹雲が忠義のためだけに一命を張ったとは考えにくい。こ
れはむしろ、この親子独特の生き方、人生観の発露ではないだろうか。
ついでに言えば、紹雲の玉砕は天下の秀吉の後詰到着という最終的な勝利の目論
みあっての玉砕である。前大戦での日本軍がとった玉砕戦術と同列にしてはいけ
ない。
平成11年5月11日

小豆坂の戦い
1548年、信長の父織田信秀と今川義元の軍師太原雪斎との間で行われた戦い。
西三河の拠点である安祥城の奪回に出陣してきた今川軍を迎撃するため、信秀は
四千の兵を率いて安祥城を進発した。3月19日両軍は小豆坂で激突、兵数で不利な
織田軍は健闘したが、坂を攻め上る形となった上、側面からも今川軍の攻撃を受
け完敗した。
「信長公記」にはいかにも織田軍が勝ったかのように記述されているが、最期に安
祥城に今川軍が入ったと記してある。まるで、自称「球界の盟主」チームが負け
た翌日の親会社発行のスポーツ新聞のようである。
なお、1542年にも戦いがあったとされるが、伝説の域を出ない。
平成11年5月11日

千利休 (せんのりきゅう)
1522〜1591。幼名田中与四郎宗易。日本史上最高の茶人。もとは堺の中堅商人の
出身であったが、武野招鴎について茶道を学び、傑出した才能を示した。特に茶
器に対する目利きは凡百を絶し、長ずるに及んで信長の茶頭をつとめる。秀吉の
時代になると、先輩の今井宗及や津田宗及らをさしおいてその筆頭茶頭となる。
政治的地位も向上し権勢を窮めるに至ったが、二人の間を取り持つ羽柴秀長が没
すると秀吉との間に確執が生まれ、最期は自害に追い込まれた。
独創に富む利休は、それまでの茶の湯を形式上簡素化し、精神性の向上をはかっ
て侘び茶を大成させた。あるとき、信長から「そちの点前は宗及らと違って疎略
に見えるが、どういうわけじゃ」と問われると、「上様が好まれますれば茶の湯
は後世まで続くでしょうが、そのときに複雑ですと人々が小難しく感じましょう
ほどに、このようにいたした次第です」と答え、大いに誉められている。
成り上がり者の秀吉は、教養面での体面を保つために利休を必要とし、重用した
が、二人の趣向は正反対であった。あくまでも質素さを追及する利休は派手好み
の秀吉を苦々しく重い、また秀吉も次第に彼を疎んじるようになる。やがて秀吉
の勘気を被ったのも、諸説はあるが、この感情のずれが遠因であろう。切腹命令
は、本当は「俺に臣従しろ」ということだったらしいが、利休の誇りはそれを許さ
ず自刃。その晩は大嵐が吹いたと伝えられている。
平成11年4月28日

堺 (さかい)
和泉北端部の町。もとは漁港だったが、南北朝期に畿内と瀬戸内を結ぶ要港とな
り、応仁の乱以降に遣明船発着港となり、朝鮮・琉球貿易にも携わって商都とし
て発展。さらに南蛮貿易により国際都市としての性格も備えるようになる。有力
な商人の合議により運営され、多くの商人、職人、傭兵を執り込み、自治自衛し
た。町の周囲には城壁が張り巡らされ、外敵の侵入を許さなかった。この地を訪
れた宣教師ガスパル=ビレラは、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり、
此町はベニス市の如く執政官によりて納めらる」と書き残している。しかし信長の
侵攻の前に町をあげて降参。信長・秀吉は堺を直轄し、多大な軍資金や鉄砲を得
た。江戸時代は幕府の直轄領として繁栄を続けたが、鎖国後は長崎・大阪に圧倒
された。しかし、自立自治の商人気質は、大阪の町に受け継がれ現在も脈々と流
れている。
平成11年4月28日

池田恒輿 (いけだつねおき)
1536年〜1584。勝入斎。異名信輝。織田信長の乳兄弟で、幼少よりその側近とし
て活躍。山崎の戦いでは秀吉方について光秀軍を殲滅する。この功もあって、つ
づく清洲会議では四宿老の一人とされた。小牧・長久手の戦いでも秀吉に従軍す
るが、功をあせって討死。
このとき恒輿は、家康の虚を衝いて三河を襲うことを献策して容れられ、羽柴秀
次を大将にたてて進軍した。恒輿自身の策であったという。しかし徳川方の情報
網にひっかかり、事前に察知されて待ち伏せに遭う。大混乱の末、森長可ら味方
の将兵は次々と討ち取られた。もはやこれまでと悟った恒輿は、取り乱すことも
なく静かに首を討たせたという。
平成11年4月26日

後藤又兵衛 (ごとうまたべえ)
1560〜1615。基次。黒田家臣。無双の豪傑。官兵衛の死後、一万六千石の高禄
を得ていながらも出奔する。勇名を知る細川、池田、福島家などが声をかけた
が、長政の横槍のため再就職もままならず、家臣も離散し、彼は京都で乞食と
なる。大阪の陣で豊家から大将として招かれ、夏の陣の河内道明寺の戦いで華
々しく散った。
主君長政とは文字通り犬猿の仲。八歳年下の長政が幼少のとき、相撲の相手を
つとめた又兵衛は容赦無く叩きつけたという。成人後は官兵衛の采配のもと、
武功を競うようになる。が、官兵衛隠居後も長政は相変わらず先陣をきる。又
兵衛にしてみれば、槍の功は自分たち侍大将のテリトリー。御大将は後方で指
揮を取ってもらいたいところだ。朝鮮の役で、長政が川で敵将と組討ちをして
いた。が、又兵衛、主君の危機に加勢しない。驚いたのは通りかかった小西行
長の家来。「御助勢を!」と叫んだが、「敵に討たれるような我が殿で御座らぬ」
と平然と見物している。又兵衛にしてみれば、先駆けするような大将ならば、
いつ戦死しても大将自身の責任とでも言いたかったのだろう。
官兵衛死後、些細なことから出奔する。関ヶ原後、世相は太平に向かっている。
武勇で鳴らした長政も、いい加減近代藩主へとモデルチェンジする時期である。
ともに武勇を競った青年時代と違い、ひねこびた理屈をこねるようにもなった
のだろう。このあたり荒侍が集まった創業期と随分家風が変わったに違いない。
時代の流れとはいえ、又兵衛にはこれが耐えられなかったのかもしれない。
この二人には、お互いの力量を知っていながらも、どうにか相手に自分の力量
を認めさせてやりたいような心理がある気がする。大阪の陣で長政が「二、三
千の兵なら手足のように使いこなす又兵衛に優る者は大阪にはいない」と言っ
ている。これは又兵衛を誉めているだけではない。そう言う長政は筑前52万石、
一万以上の大兵を率いている。安定の時期に入った二代目としてもうまくこな
しているオレの方が上さ、とうそぶいているのだ。
平成11年4月26日

島勝猛 (しまかつたけ)
?〜1600。通称左近。別名清輿。対馬の産という。石田三成の片腕として活躍した
名将。始め筒井順慶に仕え、松倉右近重信とともに「筒井家の右近左近」と称さ
れた。のち豊臣秀長に仕えたが、浪人。兵家としての才能を高くかわれ、当時四
万石の三成から一万五千石という破格の待遇でスカウトされる。(異説あり)三成
の盟友大谷吉継はこれを「俸禄をつんで人の額を叩きつけるようなことをしても、
真の忠誠が得られるものではない」と戒めている。が、恩義を感じたか左近は、
最期まで家康打倒のために尽力し、関ヶ原に散った。
「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近と左和山の城」。左近は合戦での
戦勝期し難しと家康襲撃や決戦前の夜襲を具申するが、折角の彼の献策も、実戦
経験に乏しい三成によって退けられてしまう。結局、三成には「過ぎたるもの」
であった。
それでも関ヶ原決戦の前日の杭瀬川の戦いで中村一栄隊を撃破、西軍の士気を高
めている。決戦当日は石田隊の前衛二千四百を率い、三成憎しと殺到する東軍諸
隊と激戦を展開、黒田長政隊の銃弾に倒れる。が、死体の確認されずに終わり、
生存説もある。
平成11年4月26日

周防 (すおう)
現在の山口県東部。室町期の守護は大内氏。大内氏は義弘の代に防・長・豊前・
石・泉・紀六衆の守護となり、その後九州経営の重責を担うことになる。山口は
領国の中心として発達し、歴代の京都との接触と外国貿易の影響により多彩な大
内文化を作り上げた。歴代にわたって九州平定に功があり、六角氏征伐にも協力
して中央での地位を高め、一時在京して幕府の実権を握ったが、義隆の代に陶晴
賢の反乱にあった。その後毛利氏によって滅ぼされ、中国地方はほぼ全域にわたっ
て毛利氏の支配下に入った。慶長年間の石高は16万7千石。
幕末の火薬庫。いわゆる長州の一部。高杉晋作が挙兵した下関功山寺は著名だが、
国宝五重塔を持つ瑠璃光寺はこちらにあるのだ。
平成11年4月26日

魚津城
越中東端の城。1335年、松倉に城主椎名孫八が築城。永正年間、越後から南下し
た長尾為景に包囲され、城主鈴木国重が討たれた。1551年、上杉謙信の進攻で二
度の激戦の末、落城。
1582年3月、魚津城は柴田勝家、佐々成政ら北陸遠征軍の攻囲を受ける。越中に
おける上杉方最期の拠点であり、ここが落ちたら春日山城は目と鼻の先である。
上杉景勝自身も越中に出陣し、諸方で小競合いが始まったが、信濃口から森長可、
上野からは滝川一益が越後へ向けて侵入するという情報を得、やむなく春日山に
兵を返す。孤立した魚津城は兵糧も尽き、織田方の開城勧告を受諾するが、織田
軍の騙し討ちにあって、城兵すべて惨殺された。本能寺の急変の情報が届く前日
のことであった。早速軍を返したい勝家だったが、子のような不信義を働いた直
後とあって、和睦交渉はまとまらず、羽柴秀吉と明暗を分けることになった。
柴田勝家を長とする織田の北陸遠征軍は越前一向宗平定戦などに従軍し、この地
域(越前から加賀、越中)の一向門徒相手の戦いで、戦勝=根絶やしのクセが身に
ついていたのかも知れない。相手が一向宗ならば、この図式による決着になるの
だが、上杉家のようなれっきとした戦国大名相手にこの手の戦法は少々まずかっ
た。その後のしずヶ岳戦でも上杉が羽柴方に誼を通じる結果となる。その点、中
国遠征軍の秀吉は、敵とはいえ相手との約束、戦場のルールは守り、恨みを買う
ような真似はしなかった。中国大返しがスムーズにいったのも、毛利側に好印象
を与えたからであろう。高松城の水攻めと時期、状況が非常に似ていて、しかも
戦術や結果が正反対である。隠された歴史の分岐点であった。
平成11年4月22日

蝦夷 (えぞ)
現在の北海道。室町期初め頃から北海道への和人の侵入が相次ぐようになり、半
ば頃には渡島半島海岸部の12ヵ所に和人が館を築き、在来居住民を抑圧するよう
になった。この頃和人のアイヌ青年殺害を発端として起こったコシャマインの乱
は対和人抗戦史上の代表的な戦いで、当初和人諸豪族を相次いで破ったが蠣崎季
繁配下の武田信広に鎮圧される。のちの松前氏の祖である武田信広はこれを機に
軍事的指導権を握り、蠣崎氏の養子にもなり後の蠣崎政権成立を助けた。
蝦夷とは大和朝廷の北方異民族に対する蔑称。古代には関東以東を指した。
平成11年4月22日

正親町天皇 (おおぎまちてんのう)
1517〜1593。後奈良天皇と吉徳門院藤原栄子の間に生まれた第一皇子。1557年に
位を継いだはずが、戦乱のため皇室の儀式はかえりみられなかった。それから三
年後、毛利元就の献上金によってやっと即位式ができた。皇居の造営や式典の整
備には、織田信長と豊臣秀吉が奔走した。
腐っても鯛、すさんだ世にも天皇、ということ。
和睦の調停など、危機の度に信長は朝廷(正親町天皇)を頼っている。朝廷も礼節
をもって接する信長に好意を抱いている。が、あくまでも朝廷の権力を傀儡とし
て必要なだけの信長と朝廷間には、やがて不和が訪れたようだ。丁度、足利義昭
にしたように朝廷を統制下に置こうとした信長は、将軍宣下をなかなか出さない
正親町天皇の譲位まで画策したようだ。
平成11年4月22日

甲斐 (かい)
現在の山梨県。室町期の守護は武田氏だったが時勢を反映して国内情勢は不安定
だった。守護代や国人層の下克上に苦しみ、国外からは北条早雲の侵略を受ける
など、領国統一までには苦難の時代が続いたが、戦国期に入り武田信玄が出、近
隣諸国にも及ぶ広大な領国を形成した。信濃川中島での越後の上杉謙信との合戦
は有名。勝頼の代になり信濃路から織田軍、駿河路から徳川軍に攻め込まれ、名
門武田家は滅亡した。慶長年間の石高は22万7千石。
平成11年4月22日

木曽義昌 (きそよしまさ)
?〜1595。旭将軍木曾義仲の子孫とされている。独立豪族であった木曾氏は、義
昌の父義康の代に武田信玄に服属。義昌は信玄の娘を嫁とし、一族衆として破
格の扱いを受ける。しかし、信玄没後、武田家の衰亡から織田方に降る。これ
がきっかけとなって武田氏は一気に滅亡へ追い込まれることとなった。本能寺
の変後は家康につき、小牧、長久手の戦いが起きると秀吉に通じている。両者
和睦後は家康の麾下に戻される。家康の関東入封後、上総にわずか一万石の所
領で転封される。
武田ファンからすれば穴山、小山田、と並ぶ三大逆臣の一人。他の二人が悲惨
な死に方をしているのに対し、彼は天命を全うしている。許せない?
背反ばかりの人生だったが、信玄在世時は謀叛みたいな真似はしていない。弱
小豪族は「時につく」しか生き残る術がないんだからしょうがないと思うよ。
平成11年4月22日

呂宋助左衛門 (るそんすけざえもん)
生没年不詳。安土桃山時代の豪商であり、自由人であり、稀代のペテン師である。
本名は納屋(菜屋)助左衛門。朱印船でルソン(フィリピン)に渡り巨万の富を築いた。
1593年、ルソンから帰国し、秀吉に珍品ルソン壷を差し出す。秀吉はいたく喜び、
諸大名の前で披露。大名たちは高額にて購入、機嫌を取り結ぶが、秀吉が至高の
逸品とした三個の壷には誰も手をつけなかった。この三壷は当然助左衛門が献上
するものだと思い遠慮していたのである。が、助左衛門は献上せず、どうしても
壷が欲しかった秀吉は、大金を支払うはめになった。
ちなみに、このルソン壷は中国の広東地方からの輸入品である香料や薬種を入れ
る、ただの日用品であったらしい。
襖絵が当時の第一人者狩野永徳の筆なるという豪邸を堺に建て、豪奢な生活をし
た助左衛門は、ルソン壷の件もあってか秀吉に睨まれる。そこでさっさとカンボ
ジアにトンズラを決め込んだ。ここでも抜け目なく国王の信任を得て、日本の貿
易商人を管轄する地位に就くが、その後の消息は途絶えている。
平成11年4月15日

和田惟政 (わだこれまさ)
1532?〜1571。伊賀守。甲賀の土豪。将軍義輝に仕え、その横死後は義昭を保護し、
若狭、越前と駆け回る。その間、尾張の蛟竜織田信長に目を付け、しきりと上洛
を促している。やがて信長は1568年になって、義昭を擁して上洛。惟政は功を賞
されて、摂津三守護の一人として摂津高槻城主におさまる。信長の覚えいとめで
たく、信長と義昭が不和になったときも信長につくことを選ぶが、1571年、池田
知正の軍と摂津郡山で戦って討死にした。
キリスト教に非常に理解を示しており、畿内における最大の保護者であった。信
長とフロイスとの対面を実現させたのも惟政である。しかし、惟政自身は洗礼は
受けていない。一級の知識人、教養人として、異文化にも理解と受容を示したと
いうことだろうか。改宗前に死んだことを、フロイスは、嘆いたそうである。
明智光秀、細川藤孝なみの活躍を期待し得た人物。人の才能を愛する信長も高く
評価し、お気に入りだったらしい。もう少し余命があれば、と惜しまれる人物の
一人である。
平成11年4月14日

柳生宗矩 (やぎゅうむねのり)
1571〜1646。石舟斎宗厳の五男。十兵衛三厳の父。但馬守。
柳生新陰流の開祖、宗厳の子でありながら、一介の剣術屋で終わらなかったとこ
ろに、宗矩の偉大さがある。父の命を受け秀忠、家光の二代にわたり将軍家の剣
術指南役を務めたが、その傍ら内政従事と情報分析に手腕を発揮。後に大目付と
なり、一万二千五百石の大名にまで出世した。
宗矩は柳生新陰流を治世の剣と位置づけた大先生。門下生も次々と諸大名に仕官
し、それどころか佐賀の大名鍋島勝茂にまで教授し柳生流は佐賀鍋島の御流儀と
なっている。しかし、将軍指南役として後の家光に「吾、天下統御の道を宗矩に学
びたり」と言わしめたくらいなんだから、九州の田舎大名に心酔されたぐらい、ど
うということはないかな。
しかし、そもそも剣術とは人を斬るためのもの。活人剣だとかほざいてお座敷芸
になってしまった柳生流など、取るにたらんわ、とか言う人もいた。宮本武蔵あ
たりもそんなふうに思っていたのではないかな。
平成11年4月12日

森部の戦い
1561年五月、織田軍が美濃斎藤領に攻め入り、墨俣を占領した戦い。信長の美濃
侵攻を阻んでいた斎藤義龍が突如病死し、その後を子の龍興が継いだ。信長はこ
れをチャンスとばかりに美濃へ軍勢を進めてきたため、龍興も防戦のため墨俣か
ら兵を出し、両軍は森部で合戦に及んだ。戦いは終始織田軍に有利に展開し、敗
れた斎藤軍は要衝の地墨俣までも失った。信長はこの勢いで一気に稲葉山まで攻
略しようとしたが、斎藤軍の猛反撃を受けて後退した。結局信長は墨俣を確保し
きれずに二年後に放棄、1566年に秀吉が再び確保するまでは、この方面からの侵
攻を諦めなければならなかった。
平成11年4月12日

村井貞勝 (むらいさだかつ)
?〜1582。織田家のスーパー官僚。増田長盛や長束正家なんて、青い、青い。
足利義昭が追放された後、京都所司代を務める。そのあまりの激務に一度は倒れ
たほど、フロイスも異教徒ながら「尊敬すべき人物」としている。しかし死に様は
過労死ではなく、本能寺の変において二条御所で信忠に殉じることであった、官
僚である前にサムライであったのだ。かっこいいねえ。
平成11年4月12日

前田玄以 (まえだげんい)
1539〜1602。民部卿法印。元比叡山延暦寺の僧。のち還俗して織田信忠に仕え、
本能寺の変後は豊臣家臣となる。京都奉行、所司代。五奉行の筆頭。関ヶ原の合
戦では、石田三成の西軍に参加するが、江戸に出陣していた家康に上方の挙兵を
通報し、開戦時には病と称し、早々に陣を引き上げて、京の屋敷に籠もって傍観
を決め込む。戦後は五万石を与えられた。
天下をまたにかけて二人の男の間を行ったり来たりしたクソ坊主。二股、三股な
んて、男として最低よ。やっぱり、私だけを愛してくれる人じゃなきゃねえ(ン?)。
平成11年4月9日

三河 (みかわ)
現在の愛知県東部。室町期の守護は変転するが、長く一色氏が任じた。しかし足
利氏領が残り奉公衆の所領も散在していたため、守護領国化はさほど進展しなかっ
た。一色義貫が誅殺されたあと、細川氏が守護職に就くが国人領主層が台頭、し
だいに衰退していく。しかし国人層も駿遠守護今川氏の勢力が強くなると今川氏
の被官化していった。その後松平氏が三河一国を支配するに至り、尾張進出を図
るも後退、逆に今川義元が三河にも勢力を伸ばし、一国支配を実現した。その後
桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると今川氏に人質になっていた松平元康(徳川家
康)が復帰、一揆を鎮圧するなど領国支配の基礎を固める。家康は信長と結び、三
河、遠江、駿河、信濃、甲州の五ヶ国に支配を確率、豊臣政権下で家康が関東に
移された後は、田中吉政、池田輝政が入った。慶長年間の石高は29万石。「海道一
の弓取り」といわれるに至った。
一面に濃尾平野が広がり、河川、海上の便よく、東海道が通り中山道にも近く、
商業交通が発達した隣国尾張は自然、人情は開放的で、利に聡く、明るい。それ
とは対照的に三河は良くも悪くも農民的である。人情は義理に厚く、律儀。開放
的でなく、冒険心に乏しい。天下取り三大英雄の気質、事績には、地理的要素が
おおいに影響している。
平成11年4月9日

フロイス
1532?〜1597。リスボン生まれのイエズス会宣教師。「日本史」の編纂者。
ゴアでザビエルと出会い、その話を聞いて日本への布教を望むようになる。やが
て来日したフロイスは、和田惟政の仲介により、将軍足利義昭や信長に謁見し、
布教を許可される。
だが、その後秀吉によってキリシタンは禁止され、フロイスはいったん日本を離
れる。再度来日するも、禁教令は解かれず、失意のうちに長崎で息をひきとった。
「日本史」では、結構好き勝手書いているらしい。キリスト教を認めない人間はク
ズだし、信長にしたって、傲慢で残酷でとんでもない暴君のように描写している
ところもある(実際そうだが)。もし信長がそれを読んでいたら、激怒して首をは
ねただろうか、それとも「デアルカ」といって冷笑しただろうか?
平成11年4月6日

本能寺の変
1582年六月、明智光秀が天下統一目前の織田信長を弑逆した事変。信長は光秀に
秀吉救援の出陣を命令したのだが、畿内に有力な軍勢がいない瞬間を光秀は逃さ
ず、六月二日未明、本能寺に滞留していた信長を襲撃した。信長のもとにはわず
か二百ほどしかおらず、最期を悟った信長は本能寺に火をかけて自刃した。信長
はその激烈な生涯そのままに、自らの遺骸を髪の毛一本たりとも残さなかった。
平成11年4月6日

唐入り (からいり)
16世紀末に、豊臣秀吉が明侵略を目的に朝鮮に対し服属と明への先導を要求して
起こした戦争。文禄、慶長の役のこと。「大明征伐」ともいう。朝鮮側からは「壬
申、丁酉の倭乱」。「唐入り」は当時の通称である。
秀吉が侵略を思い立ったのは、紀伊、四国を平定し関白に就任した1585年頃らし
い。九州平定を果たすと、渡海の決意を固め、対馬の宋義調、小西行長らに朝鮮
国王の来日要請の交渉を命じた。が、朝鮮から見れば、日本は同じ明の属国のせ
いぜい弟分であり、対等以下の蛮国に過ぎない。降伏して道を貸せなど、ちゃん
ちゃらおかしな要求である。やむなく小西、宗は降伏使を日本統一の祝賀使の派
遣要請にすり替えて交渉する。それでも朝鮮側は秀吉を織田政権の簒奪者とみな
して応じようとしない。小西と宗義智(義調は心労からか死去)は先例に習って、
太閤には内緒でこちらから使節を派遣し、その返礼使を送ってもらうことにした。
とにかく来てもらえれば、言葉の障壁もあるのでなんとか場を繕い、戦争を回避
しようというのである。朝鮮側は異論もあったが、敵情視察の目的でとにかく通
信使を派遣をすることになった。
秀吉はこの使節を降伏の使いと誤解、例の傍若無人ぶりで上機嫌に応対、無作法
極まりない。正使の黄充吉は心労の余り病を発する。が、「秀吉は恐るべき人物。
兵禍の可能性あり」との報告を受けた朝鮮支配層は、副使の報告が正反対であっ
たことと、ただ困難を避けたいという感情から、耳を貸さなかった。通信使に同
行した対馬の柳川調信や僧玄蘇が、秀吉の朝鮮侵略が必至であることを伝えても、
事態は変わらなかった。1592年正月、秀吉は全国の大名に動員令を下す。両国の
不幸な歴史が始まった。
戦争の根本的な原因は肥大化した秀吉の自己顕示欲にある。このころ、「自分は
神の子である」、「名前が三国に知られることだけを望む」などの発言をしている。
もちろん、太閤検地や刀狩などの諸政策への民衆の不満を外にそらそうという意
図もあったろう。また開戦が決まると加藤清正や鍋島直茂のように手放しで喜ぶ
大名も多くいた。戦国バブルの頂点という時代の気分もある。堺や博多の商人は、
戦争の軍需景気ももちろん、対外貿易の利益拡大につながる事から、支持する者
も多かった。永い太平になれた朝鮮側は、支配層の腐敗も進んでいる。外冠に関
する感覚は疎い。一般層には日本にとって朝鮮は対馬の延長、朝鮮にとって日本
はその逆程度の認識しかない。致命的であったのは両国の状況把握、相互認識の
甘さにあろう。
戦闘の経過は事細かに書かない。目立った事実だけを挙げていこう。はじめ圧政
に苦しんでいた朝鮮民衆は役人を追い出し、解放軍のように日本軍を迎える傾向
すらあったこと。日本側も当初乱暴や略奪を禁じていたこと。とにかく先頭に立っ
て交渉をまとめたい小西行長により、日本軍の足並みが乱れたこと。内幕を知り
戦争を収めたい小西行長、石田三成と、事情を知らずとにかく武功にはやる加藤
清正らの間に決定的な亀裂が生じたこと。鉄砲の使用など戦慣れした日本兵に朝
鮮の正規軍は歯が立たなかったが、郭再佑はじめとする義勇兵や、李舜臣の水軍
の活躍により、物資の輸送が困難になり、戦争継続ができなくなったこと。戦功
を証明する首級の輸送が困難になり、代用として鼻のみを削いだために、日本兵
は非戦闘員や老若男女の区別なく殺戮したこと。援軍を派遣した明の経済事情が
悪化し、滅亡のきっかけとなったこと。多くの朝鮮人が日本に連行され不幸な日
々を送るとともに、磁器製作の技術や朱子学をもたらしたこと。
1598年八月の秀吉の死によって、この酔狂なる動機による侵略戦争は終わる。朝
鮮国土の荒廃は目を覆うものがあり、人口は戦前の六分の一以下、耕地面積は三
分の一以下に減少。秀吉死後の翌々月、徳川家康は宋義智に命じて国交回復交渉
を始め、連行した人質の返還が行われた。朝鮮側は疑心暗鬼から講和に応じなかっ
たが、北方から女真族の圧迫を受け、外交、国防上、関係の好転が急務となった。
1607年、朝鮮の講和使節が来日。正式な国交関係が回復した。1609年には貿易条
約も締結。以後、朝鮮使節の来日は鎖国のなか前後十二回を数え、一代盛儀となっ
た。釜山浦には日本館が置かれ、約千人の日本人が常駐し、日朝交流の諸業務を
果たした。
加藤清正に代表される武勇譚を多く残すとともに、朝鮮の民衆に侵略者としての
日本が印象付けられ、両国間に深刻な溝をつくった。明治以降の大陸進出、戦後
の関係修繕政策の不徹底とあいまって、日韓両国民の亀裂は修復したとはいえな
い。日本側は忘れようとしているかもしれない。しかし、朝鮮側は許すことがあっ
ても忘れることは決してないだろう。
平成11年4月5日

別所長治 (べっしょながはる)
1558?〜1580。播磨三木城主。狩野秀信の作品とされる長治の肖像画をみると、武
人というよりはむしろ公家のような印象を受ける。その細おもての顔からは、二
年にわたる苛烈な籠城戦に耐え得るような人物とはとても思えない。
中国攻めに着手した信長は、長治にその先鋒となることを依頼し、長治もこれを
内諾していた。ところが、いざ開戦の段になって、長治は突如信長に反旗を翻す。
この寝返りの理由には諸説あり、信長の残忍な性格に不安を持ったとか、農民出
身の秀吉の下で働くことを嫌ったとか言われているが、その詳細については明ら
かではない。
とにかく長治は毛利側に寝返ってしまい、秀吉は毛利攻めに先だって長治を討た
ねばならなくなる。最初は力押しで長治の籠もる三木城に襲いかかった秀吉だが、
これがなかなか守りが堅い。作戦を変更し、今度は得意の兵糧攻めを展開した。
これが世にいう、「三木の干殺し」である。干上がった城内では、幽霊さながら青
白い顔をした者たちが、草木やネズミまでむさぼっていたという。
籠城から二十ヶ月、長治はついに開城を決意する。降伏の条件は、別所一族の切
腹と引換えに、城兵の命を助けるというものであった。「いまはただ うらみも
あらずもろ人の 命に代わる わが身と思へば」長治辞世の句とする。
司馬遼太郎氏の「雑賀の舟鉄砲」という短編で、別所長治は非常に美しく描かれて
いる。是非読んでみよう。氏の先祖は三木籠城戦に参加したそうだ。
平成11年4月5日

徳川秀忠 (とくがわひでただ)
1579〜1632。江戸幕府二代将軍。覇気がなく温厚な人柄ゆえに武人としての資質
は劣っていたが、治世の統治者としては適格とされる。将軍となったのちも家康
の意向を忠実に守り、徳川幕府を磐石のものにした功績は大きい。また大変な恐
妻家で、生涯側室を持たなかった(持てなかった!?)ことはよく知られている。
関ヶ原の戦いのとき、上田城で真田に翻弄されたこともあって、主戦に間に合わ
なかったことで父家康から大変な叱りを受けた。これに懲りて大阪の役のときは
強行軍を決行するが、あまりの進軍の速さに今度はほとんどの者が脱落、再び怒
られてしまう。いやはや、秀忠って素直でいい人だなァ。
とは言っても温和に見えるのは外見だけ。この人の治世の時代に幕府が執った政
策は、創業の功臣の粛清、朝廷、寺社の締め付け、禁教、海外貿易の制限など。
陰湿で印象の良くない政策をしながら不思議に悪く言われないのは、父家康のス
ケールからか、彼の業績を家康が悪言ともども吸い取った感さえある。あくまで
も二代目に徹し通した男である。
余談だが、隆慶一郎氏はこの秀忠という人が大っ嫌いだったようである。氏の著
作を読むと、秀忠観が変わるかも?
平成11年4月2日

長篠の戦い
1575年5月、織田、徳川連合軍が武田軍に壊滅的な打撃を与えた戦い。武田勝頼
は三河長篠城を奪回するために甲斐を出陣し、これを包囲攻撃した。対する家
康は長篠城救援に赴くと同時に信長へも援軍を要請した。これを武田軍撃滅の
好機と見た信長は三万の兵を率いて家康と共に設楽原に布陣、馬防柵を設置し
て地形を利用した陣地を構築し、鉄砲を組織的に運用することにより武田軍に
壊滅的な打撃を与えた。山県昌景、馬場信房ら主将格を失った勝頼は甲斐へ敗
走し、二度とその損害を回復することはできなかったのである。
新時代を築いた信長の戦略、ということで必ず挙げられる例だが、どうも誇張
が多いらしいことが最近わかってきた。
平成11年4月2日

肥後 (ひご)
ほぼ現在の熊本県全域。室町期の守護は菊地氏。戦国期、宇土為光に守護職を奪
われるが重臣の力で回復、その後菊地氏の家督は重臣等に左右されるようになっ
た。後年、大友氏が侵攻。守護職を奪い支配下に置いたが、その大友家も島津氏
の進出で没落。肥後は島津氏によって統一される。しかし、結局島津氏も秀吉の
九州侵攻によって、薩摩に追われ、佐々成政が入るが国人一揆を招き処断される。
その後に朝鮮出兵の先兵、小西行長と加藤清正が入る。慶長年間の石高は34万1
千石。
平成11年4月2日

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