歴史ひとこと No.3




佐久間信盛 (さくまのぶもり)

1528?〜1581。右衛門尉。信長家督相続のときには柴田勝家らとともに弟信行つ きの重臣となったが,信行謀叛の際は信長に与している。信長が織田家を掌握す ると,柴田勝家と並び家臣団でも筆頭の位置を占める。「退き佐久間」と唄われ, 長島一向宗や越前門徒鎮圧,長篠合戦などに従軍。家督と岐阜城を信忠に譲った あと信長は,茶道具だけを携え信盛の館に寝泊りしている。主従間は揺るぎない ものと見えたが,信盛には予想だにしない運命が待っていた。

それは苦しい持久戦が続いた石山本願寺攻めのときであった。信長直筆の書状が 届き,ねぎらいかと喜んで開いてみると,その内容は次のようなものであった。 「五年も何をぼんやりしておったのか。明智,羽柴,池田ですら手柄をあげ,功 を挙げた柴田でさえ必死で努力しておるにお前は何だ。武が苦手ならば策略を用 いるべきだろう。それでも落とせぬなら,わしに意見を聞いてくればいいものを, それさえもしておらん。七ヶ国の与力をつけているのだから,どんな戦いでも負 ける道理が無いだろう」と,不手際を責め,「三方ヶ原の戦いで平手を見殺しにし て帰った」「朝倉攻めのとき,遅参をとがめたところ,恐縮するどころか口応えし た」などと,古い話を持ち出した挙げ句,「奉公三十年,比類なき活躍をしたこと が一度もない」「事ここに至ったのも,新しい家臣を召し抱えもせず,ケチくさく 金銀を蓄えることばかり考えているからだ。天下の面目を失い,赤恥は唐・高麗 ・南蛮にまで知れ渡るところとなった」。信盛,書状を読み終え茫然自失。

「かくなる上は大敵を討ち汚名返上するか,剃髪して高野山に隠遁し赦免を待つ か,いずれしかない」と信長は結ぶ。信盛,情けなくも後者を選び,高野山で死 去。合理主義に偏り過ぎた信長に使い捨てにされたわけである。明智光秀謀叛の 心理のウラとしてよく挙げられる事件である。

平成11年6月25日



毘沙門天 (びしゃもんてん)

四天王の一。別名を多聞天。仏教の神様だから,当然出身はインド。本名をヴァ イシュラマナという。それを音訳したのが毘沙門天で,意訳したのが多聞天であ る。夜叉(鬼)の王とされる。日本ではとりわけ人気が高い。

鞍馬弘教という現在鞍馬寺だけが信仰している宗教では,金星から飛来した魔王 尊を本尊とするが,これの化身した姿を毘沙門天としている。結構笑える....も とい。凄い宗旨なので,一度訪れてみることをお勧めする。

上杉謙信がなにより崇拝した神様。自分自身をその化身とみなしてしまうに至っ ては,キレてるとしかいいようがない。しかし,闘神はいくらでもいるのに,一 番メジャーな毘沙門天を選んでしまうあたり,謙信も実はミーハーだったと言え るかもしれない。

平成11年6月25日



仙石秀久 (せんごくひでひさ)

1552〜1614。権兵衛。越前守。はじめは千石と書いた。姉川合戦で功を挙げる。 秀吉麾下として出世し,はじめ淡路,ついで讃岐を与えられる。が,九州出兵に おいて,軍監として四国勢を率いた豊後戸次川の合戦で,四国諸将の諌めも聞か ずにゴリ押しして大敗。長宗我部信親,十河存保を戦死させる。所領没収の上, 高野山に謹慎した。のち家康を頼って小田原戦に従軍,功により信濃佐久五万石 を与えられた。

謹慎を解かれ五万石を頂いたいきさつだが,秀久は小田原の陣で甲冑に数十の鈴 をつけて駆け回り,注目を集めた。これを秀吉が目に止めて,感じ入ったという のである。一応,活躍もしたのだろうが,たったのそれだけ。無能ながら可愛い 家臣だったのだろう。それにしても主従ともに見事なセンスである。

戸次川敗戦の責任者だ。こいつさえいなかったら長宗我部元親晩年の乱心もなく, 当然,長宗我部家の没落もなかったであろう。

平成11年6月24日



大宰府 (だざいふ)

筑前国にあり西海道の内政を総管し,対外的には軍事と外交を担当した特殊な地 方官庁。
律令地方行政は中央政府の諸国直轄を原則とするが,古くから対外交渉 に重要な役割をはたしてきた九州には例外的に特別行政区として大宰府を置いた。
太宰府は中央政府の縮小版で「遠の朝廷」とも称され,西海道(九州)の政治文化の 中心地として栄えた。
しかし,元寇後は博多に鎮西探題がおかれ,大宰府は実質 的な意味を失った。

平成11年6月24日



豊臣秀次 (とよとみひでつぐ)

1568〜1595。関白。秀吉の姉の子で養嗣子。はじめ三好笑岩康長の養子となる。 賎ヶ岳の戦いで功を立てるが,小牧・長久手の役で,岡崎急襲部隊の総指揮を取 るも,徳川方の奇襲を受け大敗,森長可や池田恒輿らを死なせながら,自身はた だ逃げまどうだけ。秀吉の面目を潰し,厳しい叱責を受ける。それでも小才が利 き人物も温順であったために,秀吉の嫡子鶴松の死後関白に就任,秀吉の正式な 後継者となる。

関白になったとはいえ,実権はすべて秀吉にある。自分が自由に裁量できるのは 神社関係のことのみだったそうだ。が,この頃は偉大な叔父の後継者たらんと小 さな努力を続ける。学問をよくし文芸美術に親しんだ。が,秀頼が生まれると疎 んじられる。小利口なだけに,離れていく叔父の気持ちがわかるのである。この ときに関白の座を譲ればよかったのかも知れない。徳川幕府でいう親藩筆頭くら いの位置にはつけたであろう。しかし,なぜか彼はそうしなかった。酒色に溺れ るに留まらず,夜な夜な町を徘徊しては,道行く町人を辻斬りにし,鉄砲の稽古 と称しては田畑にて農夫を撃ち殺し,殺生禁断の比叡山にて鹿狩りを行なう。 「殺生関白」。結果,自殺を命じられ,彼の一族は皆殺しに遭う。母の前で子をな ぶり殺しにし,泣く母親の首を落とすという,刑罰は残忍を極めた。

自分の生き方を見いだし得なかった男の悲劇である。血縁関係のみで予想もしな い出世を遂げた。器量にも関わらず,小利口で真面目な彼はそれに忠実であろう と努力した。しかし,その努力はいわば虚像に向けての努力である。自分で定め た生き方,自分の身丈に見合った目標に対しての努力ではなかった。彼の乱行も, 秀吉との軋轢以上に,半生を虚しくした己の過去に対してのやるせなさが心理の 裏にあったのではないか?

平成11年6月24日



平手政秀 (ひらてまさひで)

1492〜1553。中務丞。信秀の代から仕えた織田家の重臣。信秀没後は信長の後見 役として、朝廷工作や濃姫との婚姻に奔走した。その後、信長の(主としての自 覚の足りない)奇行を諌めるために切腹したとされている。だが、はたしてそう なのだろうか。

政秀の長男五郎右衛門がすばらしい駿馬を持っていた。信長はその馬を一目で気 に入り、「よこせ」と要求する。が、五郎右衛門は「私も武士ですから」と、きっ ぱりと断ってしまった。普通なら主君からの申し出など断れるはずはない。これ は平手家の織田家中での権力の大きさを示すものであり、さらにこの背景には、 有力な家臣たちの影もちらついている。

政秀はこのバカ息子や他の家臣と信長の間で苦悩するようになる。この事件のの ちに信長との関係が気まずくなったのも事実のようだ。老いた政秀には、すでに その両勢力間での板挟みに耐えられるほどの気力は残っていなかった。そして、 「諌死」という、もっともらしくも美しい名目をつけて勝手に死んでしまったので はないだろうか。

平成11年6月2日



徳川秀康 (とくがわひでやす)

1574〜1607。権中納言。家康の次男。生母の身分が低いため、幼少期はよい待遇 を得られなかった。小牧・長久手の役の講和条件として、養子の名目で秀吉の許 へ人質として出される。性剛直、戦国武将としての家康の猛々しさをもっとも濃 く受け継ぎ、秀吉の家臣であろうと無礼なものは容赦なく斬って捨てた。秀吉も 豪気な性格を愛し、「我が子なればこそ弓矢気質も我に似たり」と言ったそうだ。 つまり、家康の子としてではなくわが子同然に思っているという意味。1590年、 関東平定後、結城家に養嗣子として入り十万石。関ヶ原では上杉の備えとして宇 都宮に留まる。戦後、75万石の大大名となり、松平に復姓。越前中納言と呼ばれ る。本田正信が後継に推すが将軍職は秀忠にさらわれる。二年後、病死。

「翁草」によると、秀康が伏見で出雲の阿国の踊りを見物した際、「天下に幾千万 の女があるが、天下一と呼ばれるのはこの女だけだ。このわしは天下一の男とな れず、この女にさえ劣っている」と、ハラハラと落涙した。彼が家康の後継となっ たら、豊臣家の運命はどうだったか?不遇の自分を秀吉は引き立てたこともある し、何しろ自信のある男だ。自信のない人間ほど疑心暗鬼からヒステリックな行 動をとる。秀忠がそうだ。秀康は何より豪気で自信のある男である。大阪の陣は 不可避にしろ、ごく小大名としてなら存続させていたかもしれない。

平成11年6月2日



天正の石直し

太閤検地の当時の俗称。全国統一を成し遂げた豊臣秀吉が、王朝時代より続いて いた荘園制的支配関係を脱し、租税体系と農村の支配体制を確立するために行っ た土地調査。「天正」は当時の年号、「石直し」は、それまでの土地の価値の表示 形式を貫高制から石高制に変更したことから。

農村からすれば、鎌倉時代より続いた武家と公家、寺社の二重支配から脱却でき たが、隠し田などが持てなくなり、よりお上からの管理が厳しくなったことを意 味する。よって、刀狩りや朝鮮出兵ともあいまって反対する一揆も多発した。

また石盛りには京枡を統一使用。単位の統一をもはかったわけである。検地はす でに北条氏や今川氏も実施し、信長も大々的に行ったが、規模・目的・手段とも に太閤検地の比ではない。検地奉行の石田三成は、事実上施行者であり、実際の 企画発案者でもある。彼の吏僚としての手腕が窺える。為政者にとって税をいか に巻き上げるかという点が、平和時にあっては最大の責務である。彼は政治の真 の意味を知り得た男である。

平成11年6月2日



北条高広 (きたじょうたかひろ)

生没年不詳。上杉氏配下。毛利元就と祖を同じくし、越後の豪族であった。高広 は武勇名高く剛将として武功比類なきほどであった。1562年上野厩橋城を守る。 しかし、おつむが少々悪いのか、1554年には武田信玄に、1567年には北条氏にそ そのかされて、背いている。越相同盟締結のときに北条氏政のとりなしで帰参。 のちに「御館の乱」で景虎側についたため追放された。武田勝頼を頼るが、その 取りなしでまた帰参。のち関東に来た滝川一益に城を貸した関係で、その配下と して北条氏と戦う。

もっともその能力を惜しんだ謙信に許されてはいる。しかも敵将が取りなしてく れている。さらに上杉家にとって重要な関東の拠点、厩橋城を任せられているん だから、よっぽど武勇に優れていたのだろう。「器量、骨幹、人に倍して無双」ら しいし、白地に熊蟻の旗指物を指していたそうだ。ちょっとカッコいい。

平成11年6月2日



加賀 (かが)

現在の石川県南半部。室町期の守護は一時的に斯波氏に奪われるが富樫氏が継承 する。しかし幕府と結びつきの強い寺領が分布し、有力な国人も多く、領国支配 の貫徹は容易ではなかった。応仁の乱後、本願寺門徒の一向一揆が実質的な支配 権を取り、加賀一向一揆は富樫氏を名目的な守護としながらも完全な自主管理の 体制を確立した。長期に渡って武力干渉を排除し続けた一向一揆だったが、上杉 謙信と織田信長の攻撃を受けて滅ぼされ、「百姓の持たる国」といわれた自主の歴 史を閉じた。江戸時代には前田氏の領有となり、加賀百万石の城下町金沢は全国 有数の大都市としてきらびやかな文化が花開いた。慶長年間の石高は35万5千石。

平成11年6月2日



大久保忠世 (おおくぼただよ)

1532〜1594。徳川家康麾下の武将。生粋の三河武士。家康の自立後間もない三河 一向一揆では、棟梁忠世のもと大久保一族は全員家康側について闘った。1573年 家康は西上する武田軍と三方ヶ原で激突、惨敗した。その夜、忠世は武田軍に夜 襲を敢行、信玄の賞賛を得ている。1574年長篠の合戦でも、忠世の活動を目にし た信長に「敵に付いて離れぬ膏薬侍なり」と言わせた。その後、高天神城攻め・ 上田合戦等で功をあげ、家康の関東入府時には小田原4万5千石を与えられた。

三河一向一揆は家康にとって、最初の大きな試練であった。忠義を誇ったはずの 三河武士の多くが宗門に走り、まさに家中を二分する内訌の様相を呈したのであ る。大久保一族の団結と忠義は大きかった。その意義を過剰に自覚していく中で、 大久保一族の「一分の義」(意地としての忠義)という観念が形成されていくのだ。

平成11年6月2日



六角義治 (ろっかくよしはる)

1545〜1612。右衛門督。義賢の子。1559年に父の譲りを受けて家督を継いだが、 実権は依然として父義賢にあった。1563年、重臣後藤賢豊親子を殺害するという 観音寺騒動を起こし、家内は混乱。浅井家の進出もあり、戦国大名としての支配 力を失った。同じ年、重臣たちによって「六角氏式目」が制定され、六角氏の専 断支配体制は終わりを告げた。のち、足利義昭を擁した織田信長に攻められ、甲 斐の武田勝頼を頼った。武田氏滅亡後は豊臣秀吉の御咄衆にまで落ちぶれ、秀頼 の弓の師範として一生を終えたという。

名を残すことこそが名家に生まれた者の責務、そのためにはいかなる屈辱にも耐 えてみせる…とか考えたわけじゃないだろうなあ、やっぱり。

蹴鞠の今川氏真に、弓の義治。まだ武の部分があるだけ義治のほうがましかな。 降伏した親父と違って、再興めざして徹底抗戦をしているしね。

平成11年6月2日



山城 (やましろ)

現在の京都府南部。室町幕府の所在地で初め守護は設置されなかったが、のち畠 山氏が任じられ影響を及ぼした。その後山城国一揆が成立し八年間に及び自治を 行うが、崩壊後は細川氏の支配下に入った。その後信長が入京して京都朝廷を利 用、伝統的勢力とも妥協しながら天下統一の基礎固めを進めた。秀吉もそれを受 けて京都改造を行い、近世的統一国家の拠点として京都を位置付けた。慶長年間 の石高は22万5千石。

あまねく戦国大名が憧れた京洛の地。しかし、同時にそこを基盤とした権力者を ことごとく滅亡に追い込む魔都でもある。頼朝と家康はそれを知っていたからこ そ、関東を本拠としたのだという。

平成11年6月2日



酒井忠次 (さかいただつぐ)

1527〜1596。左衛門尉。徳川四天王の一人。酒井家は松平宗家にとって重代の家 老職を務める家柄で、左衛門尉系と雅楽頭系に分かれるが、忠次は左衛門尉系の 出である。家康の父広忠に仕え、その妹碓井姫を妻にする。広忠の死後、駿府で 人質になっていた家康(当時は竹千代)に仕え、岡崎に自立後は家老を務めた。家 康の三河統一後は吉田城をあずけられ家中初の城主となり、東三河の旗頭に任ぜ られる。以後、三河軍団の最高軍司令官として家康の覇業を支えた。

人質時代を共にした近臣中では最年長。家康前半生の外交方針に、この人の与え た影響は大きい。桶狭間後信長の和睦申し入れに対し、忠次は信長と氏真を比較 して「猫と結ぶのと虎と結ぶのと、どちらが得策か」と家康に迫り、今川方に傾い ていた家中を押し切った。悪名高い信康切腹事件も、家康のためになると思えば こその智謀であったか。

三方ヶ原の戦いでの酒井の太鼓、長篠戦勝を決定的なものにした鷲ノ巣砦急襲な ど、創業の元勲にふさわしい活躍をみせた忠次だが、信康切腹事件以後かげりを みせ、代わって井伊直政が、家臣団でも重きをなしていく。江戸時代には、大老 の要職は、雅楽頭系酒井家と井伊掃部頭家に占められ、忠次の子孫である左衛門 尉家はふるわない。

平成11年5月28日



鈴木重秀 (すずきしげひで)

生没年不詳。左大夫の末子。雑賀鉄砲衆の伝説的な実戦指揮官・雑賀孫市(一)と 伝えられるが不詳。この鈴木重秀、兄の鈴木重朝、兄弟の父である鈴木左大夫、 一応この三人の誰かが孫市らしい。以降孫市の事績である。

孫市は石山合戦に根来・雑賀の鉄砲衆を率いて参加、下間頼廉とともに、「大阪 の左右の大将」、つまり籠城側の軍指揮官になる。安芸門徒による海上からの援 護もあって、信長軍をさんざんに悩ませた。しかし領主的な性格をもつ孫市ら大 坊と百姓道場との内部対立が生じ、そこにつけこんだ信長の切り崩し工作によっ て、雑賀衆は自壊した。石山開城後は本願寺と信長方との取次ぎ役を務め、後年、 秀吉にも仕えたようである。

雑賀といえば鉄砲衆、何となく傭兵集団のようなイメージだが、同時に宗教集団 であり、中小土豪の連合体であるという側面を忘れることはできない。雑賀衆の すべてが本願寺に籠もったわけではない。また土豪としての地方領主的性格を刺 激されたため、信長の切り崩しにあったのである。

平成11年5月28日



十河一存 (そごうかずなが)

?〜1561。民部大輔。讃岐守。三好一族。長慶の弟である。兄を助けて畿内で活 躍。畠山氏を滅ぼし岸和田城主となった。

近隣の寒川氏との戦いで槍傷を受けたが、塩を押し込んだ傷口を藤蔓でぐるぐる 巻きにして戦闘を続け、何食わぬ顔で帰城したことから、「鬼十河」と呼ばれ恐 れられた。

一存はほかの一族衆と同様に、成り上がり者の松永久秀を好きになれなかったそ うだ。瘡を病んで有馬温泉で休んでいたときに、久秀が見舞ったときのことであ る。病気の具合がよく有馬権現に参詣に行こうとする一存を、「葦毛の馬を権現 様はお嫌いだから」と久秀は忠告した。が、普段不仲であるため耳を貸さなかっ た一存は、途中で落馬し、これが原因で没した。このことから松永久秀が単なる 極悪非道の輩でないことが窺い知れる。

平成11年5月28日



茶々 (ちゃちゃ)

?〜1615。淀君。浅井長政の第一女。母はお市の方。小谷、北ノ庄と二度の落城 を体験した末、秀吉のもとに引きとられ、その側室となった。嫡子秀頼を産んで からは権勢を握り、太閤正室の北政所らと確執。以後、関ヶ原や大阪の陣をめぐっ て政治に関与するも、夏の陣で徳川方に惨敗し、秀頼とともに自害して果てた。

「太平の世の大将が、どうして武芸を窮める必要がある」といって秀頼を蝶よ花よ と育てたり、いわゆる「方広寺鐘銘事件」で感情的になり、まんまと家康のワナ に引っ掛かったり、あまりに盲目的な茶々ではあったが、信長の姪という強烈な プライドで何物にも屈せず戦乱を生きぬいた姿は美しくもあった。

こういう好意的な見方は、近年、まれ。気位だけが高くて、現実を見ることので きないバカ女が豊家を滅ぼした、という見解が一般的であろう。たしかに彼女の 行動で、豊臣家のためになったことは一つもなかった。北政所を追い出したりし て、豊臣家に好意を持つ大名が皆無となったのはプライド、自意識が肥大した彼 女の存在が大きい。政治を知らないものが政治に口を出して失敗した例の代表格 である。

平成11年5月28日



丹波

現在の京都府中部及び兵庫県東部。室町期の守護は細川氏。細川氏は四国出身の 被官のみを用いたので土豪たちの反発を招き国人一揆が頻発したが、それでも領 国は比較的安定していた。しかし、山城国一揆の影響で大規模な国一揆が勃発。 これと細川家の内紛によって領国は解体状況に陥る。その後守護代内藤氏が戦国 大名化し三好氏との対立を経て、丹波の支配権は三好配下の松永長頼(久秀の弟) が握るが、三好長慶の死後内紛が起こり、その丹波支配も崩壊した。その後波多 野氏をはじめとする豪族が跋扈、信長の丹波征討に際し明智光秀が入り、平定す る。明智光秀が滅んだ後は秀吉の子、羽柴秀勝が統治した。慶長年間の石高は26 万3千石。領民と戦うゲリラ戦を経ながらも善政を布いた光秀は、今なお、この 地で慕われている。

平成11年5月28日



イエズス会

耶蘇会。16世紀前半に起こった宗教改革で窮地に立たされた旧教(カトリック)側 が、勢力挽回のために組織した教団の一つ。イグナチウス・ロヨラ、フランシス コ・ザビエルらが中心となって設立した。軍隊風の鉄の規律を持った組織で、ロ ヨラが要求した姿勢である「死体のように」という言葉は非常に有名。植民地を 中心とした海外布教に力を入れ、彼らの伝導がキリスト教の世界伝播に果たした 役割は甚大である。特に戦国末の日本においては、イエズス会がキリスト教の布 教をほぼ独占した。日本耶蘇会や布教中の会士がインドやローマに送った「耶蘇 会日本通信」、「耶蘇会日本年報」は重要史料となっている。

日本では初めてキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルが有名だったが、 某大河ドラマのおかげか、最近ではルイス・フロイスやロレンゾのような連中の 方が、メジャーだったりするかもしれない。

それにしても、同じ宗教なのに宗派に分かれていがみ合い、時には殺し合うこと さえするのは日本でも同じである。

しかし、一身の危険を顧みず、己の理想のため遥か東洋の島国まで赴いた伝導者 たち個人の勇気と熱意は十分評価されてしかるべきものである。

平成11年5月17日




上杉景虎 (うえすぎかげとら)

1552〜1579。北条氏康の七男。七男の立場ゆえ、幼少から人質として生きること を余儀なくされる。甲駿相三国同盟成立時には武田氏の人質に、同盟破棄後はいっ たん北条へ戻るが、後に上杉と同盟の際に謙信の養子にされる。ただ、実子のい なかった謙信には大事にされたのか、謙信の幼名「景虎」を与えられた。御館の 乱で景勝と戦い敗死した。

運命に翻弄され続けた男というべきか、このような生き方を本人も望んでいたの かどうか? 実家の北条氏も本気で彼を助ける気があったとは思えないし、武田勝 頼には裏切られるし。

平成11年5月17日




越前 (えちぜん)

現在の福井県北東部。室町期の守護は斯波氏である。斯波氏は管領家として幕政 に参与したが、代々短命が多く、これに対して発言権を高めた守護代甲斐氏は専 横が目立つようになった。その後甲斐氏と結んだ朝倉氏の権力が高まり、越前を ほぼ掌握するにいたる。反朝倉勢は、北陸一帯に急速に形成されていた一向宗教 団と結び侵攻を試みたがこれを撃退、朝倉氏は領国支配を維持した。国の領有を めぐった朝倉氏と斯波氏の有名な訴訟事件も朝倉側が実質的な勝利を収める。朝 倉氏の居城一乗谷には荒廃した京都を避けて来遊する学者や文化人が多く、越南 の小京都とうたわれ繁栄した。その後織田氏との宿命的な対立が始まり、近江の 浅井氏と結び合戦を繰り返すが敗北。朝倉滅亡後は柴田勝家とその目付け・府中 三人衆を配した。関ヶ原後は結城秀康が入封。松平姓に改称。以後親藩中の雄藩 として幕末まで続く。慶長年間の石高は49万9千石。

平成11年5月17日




羽柴秀長 (はしばひでなが)

1540〜1591。子一郎。美濃守。大和大納言。羽柴秀吉の異母弟。早死、不肖の人 が多い秀吉の血縁のなか、唯一天下取りに大きく貢献した秀吉の血縁者である。 1562年、信長のもとで百人足軽頭に出世した秀吉は尾張中村で百姓をやっていた 弟・秀長を「鍬を捨て、助力してくれ」と口説いた。朴訥でおとなしい秀長は 「おらにいくさはできねえ」とためらったが、秀吉の執拗な誘いに折れ清洲に出 向く。以後、秀吉の主な戦功に秀長はほとんど関与している。1570年の金ヶ崎の 引き陣のときは一段目の大将を務めているし、1573年の浅井小谷城攻めでは一番 手として夜襲をかけた。中国遠征では秀吉の本軍から離れて別働隊を率い、おも に山陰方面を攻略。但馬国を攻め豊富な銀山を手にして秀吉の経済力を高め、中 国大返しでは殿軍を務めた。山崎合戦でも秀長軍はいち早く天王山を占拠し、秀 吉を勝利に導いている。小牧長久手戦後、対家康工作で動けない秀吉に代わって 四国遠征の総指揮をとり、九州遠征では、日向方面侵攻軍の総大将を務めた。

農夫あがりのにわか武士にも関わらず、敵を恐れぬ勇武の人であり、並みいる土 豪を感服させた人格者であった。秀吉が信長に生命を預けたように、生涯、秀長 は秀吉のことだけを考え続けた。恐るべき出世を遂げた兄は、秀長にとって誇り と畏怖の対象であったのだろう。決して私欲に走らない清廉さと朴訥な人格は誰 からも愛された。

秀吉が天下人となったあと、秀長は大和国を与えられ郡山城に入った。秀長は経 済力に長けた実務家としての実力を発揮、長い間筒井家によって支配されていた 大和を見事に統治した。1590年、51歳で死去。郡山町民は秀長の死を悼み、「大 納言講」を作って供養したという。農夫あがりの庶民派・秀長らしいエピソード である。

秀吉が利休と並んで重用したブレーン。彼がいま少し延命していれば、豊家滅亡 には至らなかったといわれている。

平成11年5月12日




肥後 (ひご)

ほぼ現在の熊本県全域。室町期の守護は菊地氏。戦国期、宇土為光に守護職を奪 われるが重臣の力で回復、その後菊地氏の家督は重臣等に左右されるようになっ た。後年、大友氏が侵攻。守護職を奪い支配下に置いたが、その大友家も島津氏 の進出で没落。肥後は島津氏によって統一される。しかし、結局島津氏も秀吉の 九州侵攻によって、薩摩に追われ、佐々成政が入るが国人一揆を招き処断される。 その後に朝鮮出兵の先兵、小西行長と加藤清正が入る。慶長年間の石高は34万1 千石。

平成11年5月12日




土岐頼芸 (ときよりよし)

1502〜1582。左京大夫。美濃守。美濃の守護大名。西村勘九朗(斎藤道三)に擁立 され、兄頼純(政頼)を追い出し家督を継ぐ。国政は道三に任せ、酒色の日々を過 ごす。1542年、道三に美濃を追われ尾張に逃れる。講和により一度は帰国するが、 それも束の間、再度追放され、諸国を流浪。1582年、本能寺の変後、遠縁を頼っ て上総にいた頼芸は旧臣の稲葉一鉄に招かれ帰国を果たす。が、ほどなく永眠。

無為無能。父祖以来の国を失い、ほとんど無駄とも言える人生を送った彼の唯一 のとりえは画。鷹のみを好んで描いた。名門ゆえの腐乱した生活ぶりは旧弊な中 世社会の権力者の象徴的な存在であった。そして腐乱ゆえに滋養に満ちた社会土 壌は、梟雄道三を産み、道三の遺志を信長が継ぎ、天下の統一による新時代が到 来したのである。新時代の芽が己の屍を滋養として成長する様を見るように余命 を過ごし信長の死を待つかのようにほどなく死んだ。ただ己と己を産んだ母体を 腐らせることがこの男の歴史的使命だった。

平成11年5月12日




中富川の戦い

1582年、八月の長宗我部元親と十河存保の戦い。本能寺の変で織田軍の四国遠征 が中止、内紛状態になると、好機とばかり、元親は十河存保率いる三好勢を阿波 から駆逐するため、本拠勝端城目指して進撃した。存保も城を出て応戦。両軍は 中富川を挟んで戦ったが兵力に勝る長宗我部軍の勝利に終わり、三好軍は勝端城 へ退却した。

長宗我部氏は四国統一の野望を目前にして信長、秀吉、家康の三英傑に翻弄され、 遂には滅びてしまう悲運の大名である。このときが絶頂のときであったといえよ う。

平成11年5月12日




仁科盛信 (にしなもりのぶ)

1557〜1582。薩摩守。信玄の五男。散りゆく武田家の最後を飾るにふさわしい豪 将であった。

木曾義昌寝返りを契機に、織田軍への内応者が続出し、戦国最強を誇った武田軍 団は見る影もなく崩れていく。武田家滅亡はもはや明白、後はその後の身の振り 方の問題であった。いかに武将としての名を残すか、あるいは家名の存続を図る か…小山田信茂、穴山信君ら、武田家歴戦の強者たちの中にも後者を選ぶものは 多かった。もちろん、親族であり、信玄亡きあとの武田家を勝頼とともに支えて きた盛信の生き方は決まっている。

盛信の籠もる高遠城に押し寄せた織田軍総大将、織田信忠は降伏を勧告。「降伏 すれば、とりあえず褒美として黄金百枚を与える。所領も相談に応じよう…」。 降将には破格である。だか、盛信はその勧告をはねつけると、死者の鼻をそぎ、 「再度来れば首を斬る」と信忠に送り返す。いよいよ始まった織田軍の大攻勢に、 盛信は自ら太刀を振るって奮戦する。「信長公記」にも、「…比類なき働き、前 代未聞の次第なり…」と、敵である仁科軍を絶賛している。が、所詮は寡兵。戦 うだけ戦ったら、あとは負け方の問題である。盛信はこの点も抜かりはなかった。 自ら腹を十文字に掻き切って、一人の「もののふ」として見事な最後を遂げた。

「武田の殿様欲深く、おいらの取り入れ無駄になる。仁科の殿様慈悲深く、おい らの取り入れ山になる。先の殿様命取り、今度の殿様命延ぶ」高遠城のあった伊 奈地方に今も残る唄である。盛信は民からも非常に愛されていた。高遠城陥落の 際、女子供までもが盛信の後を追って自害している。「今度の殿様命延ぶ」とい う唄から考えると非常に皮肉な結末とも言えよう。盛信の首のない遺体は、地元 領民によって手厚く葬られた。

平成11年5月12日




野良田の戦い

1560年八月、浅井長政が六角義賢を破り北近江における覇権を確立した戦い。長 政の父久政は六角氏に抗しかねてその麾下にあったが、長政とその家臣はクーデ ターにより家督を奪取、六角義賢との敵対を明らかにした。このとき肥田城主高 野瀬備前守が浅井方に寝返る。義賢は肥田城を攻撃したが、長政も後詰に出陣、 両軍は宇曾川を挟んで対陣。数に優る六角軍優勢で戦闘は進むが緒戦の勝利で油 断していたところを浅井軍の後衛に逆撃を受け、六角軍の敗北に終わる。

平成11年5月12日




備前 (びぜん)

現在の岡山県東南部。室町期には播磨守護赤松氏が備前守護を兼ね、領国化した。 赤松氏の没落後は山名氏が守護職を得たが、赤松政則が奪回。その後山名氏も旧 領回復を狙って再度侵入するも失敗に終わる。赤松氏が衰えると浦上氏が台頭、 覇権を掌握しようとしたが家臣の宇喜田直家に実権を奪われる。直家は毛利・織 田両勢力の対立を利用しつつ、備中の三村氏を滅ぼして備前を中心に支配権を確 立、戦国大名化するが、間もなく病死した。子の秀家は秀吉に養われて後に豊臣 政権下の五大老の一人となった。慶長年間の石高は22万3千石。

平成11年5月12日




毛利降元 (もうりたかもと)

1523〜1563。備中守。大膳大夫。毛利元就の長男。降元は家督を相続したものの、 事実上、隠居の父・元就が毛利家の当主であり、どうも存在感が希薄だ。その上、 息子の輝元は器が小さいと言われつつも関ヶ原の一件で立派な有名人なので、間 に挟まれた降元はどうも影が薄い。「悲劇の将」にもなれなかったところがつら い。では降元が不肖の人だったのかというと、決してそうではない。なかなかの 好人物だったのだ。降元は15歳のとき、父元就の謀略の犠牲となって大内義隆の もとへ人質として赴いている。義隆は幼いながら清廉潔白な降元を大いに気に入 り、以後、両家の敵対関係は氷解した。尼子氏が三万の兵を率いて毛利の本拠郡 山に攻め入ったとき、義隆は一万の援軍を差し向けた。その上、自分の養女を降 元に娶らせた。降元なくしては元就の対大内氏の謀略は成功しなかったといえよ う。

降元は41歳の若さで、元就より先に病死している。頑固親父が老婆心を発揮して 色々と口出ししなければ、毛利家当主としてけっこう立派に活躍していたかもし れない。

平成11年5月12日





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