歴史ひとこと No.4

毛利輝元 (もうりてるもと)
1553〜1625。右衛門督。右馬頭。侍従。参議。権中納言。毛利元就の孫。隆元の
子。輝元の父隆元は毛利氏の家督を継いだが,事実上,元就が実権を握り,しか
も隆元は元就より早死にしている。ゆえに輝元は優秀かつ頑固なお爺ちゃん元就
から,一代飛ばして,毛利家の当主を継いだ形になった。部長のやっていた仕事
を平社員が引き継いだようなもので、少々可哀想な気もするが、後世の輝元に対
する評価は、覇業の後継者の器でなかったと芳しくない。
輝元の評価を決定的にしたのは,関ヶ原のやりよう。徳川家康に次ぐ豊臣五大老
の次席として、輝元はついうっかり西軍の総大将を引き受けた。自分を取り上げ
てくれた秀吉への敬慕の念からだという説もあるが,まったく状況が掴めていな
い。天下を取る気がもともとない輝元にとって,総大将を引き受ける内的必然性
がない。仲人じゃあるまいし,何となく引き受けていいことと悪いことがある。
いや仲人だって,引き受けるときにはもうちょっと考えるだろう。総大将という
ものは負けたら責任を負わねばならないのである。妖僧・安国寺恵けいにのせら
れ、いつの間にか大阪城に腰を据えていたというのだから,一体全体なに考えて
んだか。吉川広家ほかの重臣たちはあわてて、徳川方と内約に走った。
関ヶ原の敗戦の最大の原因は,「毛利両川」の一方,吉川だと言われる。もっとも
この頃,小早川はれっきとした独立大名であるが。輝元の従兄弟吉川広家の密約
によって,毛利軍は関ヶ原において不戦。おかげで西軍は敗退。大阪城退却後も,
抗戦か恭順か決めかねて,グズグズしているところを徳川につけこまれた。あれ
は三成にかつがれてのことなどと,だらしのない言い訳をしている。結果,祖父
元就の代には中国一体を掌中に収めていた毛利氏が,周防長門の外様大名に落ち
ぶれたのである。まとめれば、この関ヶ原をめぐる世間流転の様相を,総大将に
担ぎ出された輝元は指をくわえて見ていただけという印象が強い。どこかの国の
総理大臣にもこの手のがいるな。
立派すぎる祖父を持った不幸というのが、輝元への精一杯のフォローの言葉だろ
うか。関ヶ原敗戦後,萩に籠り,落髪して「宗端」と称した。七十五歳で死去。
徳川時代にも,毛利家では関ヶ原の恨みを忘れず,年賀の挨拶では,筆頭家老が
「今年は(挙兵は)どうでしょう?」みたいなことを当主に訊ね,「まだまだじゃ」
と返すことが恒例になっていたそうな。徳川と毛利じゃ家格はほとんど同じか,
毛利のほうがむしろ上だからねえ。
平成11年7月9日

論功行賞 (ろんこうこうしょう)
「功を論じて賞を行う」、日本式封建体制の根幹。「御恩」があればこそ、武将
は「奉公」するのであり、御恩の切れ目が奉公の切れ目だ。鎌倉幕府はそれで
滅び、建武の新政もそれで失敗したことは、あまりに有名である。
「御恩」といえば土地のことであり、武士にとって他に価値あるものなど存在
しなかった。官位や名前や腰のものなんて、二の次三の次、である。しかし、
これに「茶器」という新しい「御恩」をドカンと登場させ、定着させたのがご存
知信長。以後、武将たちはこぞって狂ったように名物茶器を求めるようにな
る。日本人の心情が最も理解しがたい側面を見せた時期であった。
平成11年7月9日

滝川一益 (たきがわかずます)
1525〜1583。左近将監。近江甲賀の出身。織田四天王(柴田、丹羽、明智)の一人。
「進むも滝川、退くも滝川」といわれた驍将。伊勢長島城主。「勇かつ智あり。
射銃をよくす」流浪のこの男を信長は抜擢。北伊勢侵攻戦、長島一向一揆虐殺、
長篠の役、武田殲滅戦の功により、関東管領職を任じられ、上野厩橋城に進出。
しかし絶頂もここまで。本能寺の変後、管領の面目のために、しなくてもいい神
流川の一戦で北条勢に敗れ、清洲会議にも出席できず。柴田勝家・織田信孝と組
み反秀吉の兵を挙げるが、かなわず降伏。小牧・長久手で秀吉に登用され、尾張
蟹江城を落とすがすぐ奪われる。己を見限った一益は越前大野に引退、ほどなく
病死。
あるとき、一益は庭の鶴と雀を眺めながら近臣につぶやいた。「見よ、鶴には寸
分の油断もないが、雀は人がいても平気で遊んでおる。わしら大名もさしずめあ
の鶴のようなもので、片時も気の休まることはない。お前達は鶴をうらやまず、
雀の楽しみを味わうがよいぞ」このような言葉を吐く一益は部隊長としては有能
でも所詮独り立ちできる器ではなかった。
織田家臣団は信長の死で明暗を分けた。暗の象徴は一益。小牧・長久手で蟹江城
を攻め、城主前田種利を利をもって降し、無血開城させるまではよかったが、徳
川方の攻撃を受ける。前田種利の首を差し出せば一命は助けるとの条件に一益は
承伏。ヤキがまわったとしかいいようがない。猛将としての一益も信長という光
あっての栄光だったのだろう。もっとも、人間落ち目のときはこんなものだ。無
遠慮に責めるわけにもいかないだろう。
平成11年7月9日

上洛 (じょうらく)
京(洛中)へ上ること。上杉謙信は、桶狭間の前年に果たしている。三好や松永あ
たりなら日常茶飯事だ。
信長があみだした、天下統一への秘密の近道。信長は1568年に義昭を擁して上洛
を果たし、彼を十五代将軍に据える。以降、京と幕府・朝廷の掌握は彼の政治基
盤となった。これにより天下平定の名分を得、目的に向かって邁進した。
通説では今川義元が上洛の兵を起こし、桶狭間であえなく討たれたとされている。
が、道筋の諸侯に対して事前の外交交渉はしていないことから、これはただの尾
張併呑戦であったとするのが、最近の定説。晩年の信玄も上洛戦を展開した。が、
それまでは領土拡大を専らとし、天下を狙っていたとは考えにくい。何よりも、
当初より天下統一というヴィジョンを持ち得たのは信長一人であり、他の大名か
ら抜き出た眼力は卓抜であるといえよう。
平成11年7月9日

鈴木重則 (すずきしげのり)
1547〜1589。真田昌幸家臣。上野名胡桃城代を務めていたが、北条氏配下の猪股
範直に攻められて自刃した。これが、小田原の陣の起因となった。
秀吉が北条の上洛を促したころ、北条・徳川の盟約で上州は北条の領土という条
件があった。が、沼田の地は真田ががっちり握っている。そこで秀吉は昌幸に信
濃に代替地を授けるから、沼田を北条にやるように言ったが、昌幸は、沼田のう
ち名胡桃には真田家代々の墓があるのでここだけは勘弁してくれと願い出、認め
られた。しかし墓というのは昌幸の嘘。つまり重則は嘘の墓守で命を失ったわけだ。
平成11年7月9日

聖書
宣教師フランシスコ・ザビエルが日本人の贈答好きに着目し、大内義隆に贈った
ものの一つ。革表紙の立派なものであったらしい。これらの贈り物のおかげで
「デウスを信じてもよい」との布教の許可を得たザビエルは、布教に励み、わず
か半年足らずで三千人以上に洗礼を授けるほどになったという。「郷に入ったら
郷に従え」を実行したザビエルが賢いのか、ただ単に日本人が物に弱いのか...。
平成11年7月9日

宮本武蔵 (みやもとむさし)
1584〜1645。戦国時代きっての剣豪。
と書いたが、武蔵が戦国の世を縦横無尽に駆け巡り、その剣の腕前を披露したの
かというとそうではないから注意。生まれは播磨とも美作ともいわれるが定かで
はない。十六歳のとき、立身出世を夢見て関ヶ原合戦に従軍、武功を果たせず退
散したというが、これは後の武蔵の活躍を際立たせるための伝説かもしれない。
武蔵の志とは逆に、世の中は泰平の世へと向かっていった。武蔵は諸国を放浪し
ながら、他流試合を繰り返す。九州小倉での巌流佐々木小次郎との有名な対決も
含め、二十九歳まで六十余度の真剣勝負を繰り返したという。そして編み出され
たのが有名な二刀流である。
武蔵は戦国時代に遅れてきた剣豪であった。泰平の世の中で剣のあり方を追求し、
禅修行の思想とあいまって確立したのが「五輪書」である。また、水墨画にも親し
み、「鵜図」「布袋見聞鵜図」などの作品を残している。剣術にとどまらず、幅
広い活躍をしたマルチ芸術家ともいえる人物であった。しかし武蔵が戦国動乱期
に生き、諸将を渡り歩いて「ゴルゴ13」みたいな活躍をしていたら…夢想は果て
ない。
実に愛されているキャラクターであるが、実際は勝つためにはどんなド汚ねえこ
とでも平気でやる鬼畜のような男であったらしい…と、イメージを壊すのはやめ
ておこうかな。勝負は勝たなければ意味がないものねえ。
平成11年7月7日

村正 (むらまさ)
伊勢桑名の刀鍛冶。戦国時代に三代にわたって活躍した。作刀は徳川家に祟る妖
刀とされた。
家康の祖父、清康が家臣に殺されたときの、殺害者の所持刀。家康の父広忠が家
来に傷つけられたときも村正。家康の息子信康切腹の際にも、介錯に使われたの
は村正。家康自身も村正により二度傷ついている。
長崎奉行竹中正重は村正の刀を集めたカドで、遠島ですむところを切腹申しつけ
られている。この幕府はどうもケツの穴が小さい。もっとも、徳川に恨みを抱く
鍋島勝茂や島津他の外様大名は密かに愛用したそうだ。幕末では倒幕をめざす志
士たちはこぞって愛用し、西郷隆盛も村正の短刀を放さなかったという。
この時代、切れ味のよい刀剣を愛用するのは武士の常識。伊勢と三河は近く、こ
のあたりの侍が村正を使うことが多いのは当たり前。本多忠勝の名槍「蜻蛉切り」
も村正作である。戦国時代なんだから、斬った斬られたは日常茶飯事だし、使っ
ているのは村正ばかりなんだから、事件があったら、凶器が村正であることは当
たり前だ。第一、徳川家だって村正のおかげで、結構助かっているんじゃなかったの
ではないだろうか???
平成11年7月7日

松風 (まつかぜ)
生没年不詳?「関羽に赤兎あれば、項羽に騅あり。松風・黒王、いかでか敵わん」
史上不滅の四代「いくさ馬」を評した小唄である。
「いくさ馬」とは単なる名馬ではない。自ら主を選び、主以外と駆けることを拒
否し、ときには主の危機を救う。また、主の心を解し、戦場では主以上の働きを
することも稀ではない。そのような馬だけに与えられる尊称が「いくさ馬」なので
ある。
松風はいわゆる野生馬で、いかなる人でも、その背にまたがることを許さなかっ
た。だが、その堂々たる体躯を一目で気に入った前田慶次は、曰く「馬銜をつけ
ずに乗る約束をして」ともに駆けるにこぎ着けたという。
慶次の縦横無尽の暴れっぷりは、その半分は松風あっての慶次、慶次あっての松
風、だったのである。
平成11年7月7日

北条氏邦 (ほうじょううじくに)
1541?〜1597。安房守。氏康の三男。武蔵天神山城主の藤田泰邦養子となる。その
後旧姓に戻るが、義父泰邦が逝くと、嫡子重連を毒殺して天神山城を奪い取った。
「小田原評定」では兄氏照とともに出撃策を主張するが、容れられず、籠城戦に決
定。氏邦は小田原三大支城の一つ鉢形城に豊臣軍を迎え撃った。
上杉景勝・本多忠勝・真田昌幸ら率いる五万の兵が押し寄せてくると、氏邦は、
荒川の流れをせき止め、川を渡る敵兵を一気に押し流すなど、智謀の限りを尽く
して奮戦した。だが、忠勝の大砲攻撃が始まるに及んでついに開城を決意し、城
兵の助命を条件に降伏した。
のちに剃髪して僧となるが、その後前田利家の客分として迎えられ、金沢に移った。
平成11年7月7日

豊前 (ぶぜん)
現在の福岡県の一部と大分県の一部。室町期の守護は一時大友氏に移るが、、長
期において大内氏が任じた。戦国期に入ると豊後の大友氏が侵攻、勢場ヶ原の合
戦という激戦を経て、戦況は膠着状態となる。やがて大内氏は中国方面において
尼子氏に惨敗を喫し、これを期に時の当主義隆は武事を避けるようになる。自然、
大友との間にも和睦が成立し、宗麟の弟義長が大内氏に養嗣子として入った。し
かし、まみなく義隆は家臣陶晴賢に討たれ、その晴賢も義長とともに毛利元就に
滅ぼされる。以後、豊前は大内旧領をめぐって大友と毛利の戦場となる。立花城
を中心として激しい攻防戦が繰り返されたが、結局毛利氏は尼子氏との対決に全
力を注ぐため九州から撤退、尼子滅亡後も織田勢力の台頭に抗するため、九州に
目を向ける余裕はなくなった。最終的に大友が豊前の支配権を得たのである。豊
臣政権下では毛利氏と黒田氏が配された。慶長年間の石高は14万石。
平成11年7月7日

宇喜多直家 (うきたなおいえ)
1529〜1581。岡山城主。浦上家に仕えて没落した宇喜多家を再興した後,主家を
打倒して戦国大名の道を歩み始める。近隣諸国とは掌を返すような同盟を繰り返
し,あらゆる機会をとらえては謀略・毒殺などの悪辣な手腕をもって,領土を拡
大した。信長の中国攻略が始まると,またもや毛利から織田へと鞍替えするが,
その際抜け目なく方面軍司令官の羽柴秀吉と誼を通じ,実子の秀家を秀吉の養子
とするまでになる。1581年、岡山城にて病没。
戦国時代最大の梟雄の一人で,目的のためには手段を選ばなかった。またその冷
酷さは西の信長ともいわれ,弟の忠家などは,彼の死後にこう語っている。「兄
ほど恐ろしい人はいなかった。いろいろ可愛がってもらったが,兄の前にまかり
出るときは常に鎖帷子を着て用心したものである」。しかし,その徳のなさに反
して家臣団の結束が固かったのは,能力主義に徹した彼の人使いがうまく働いて
いたことを示している。
平成11年6月28日

江戸城
武蔵南部の城。1457年,名将大田道灌が関東治世の要地として場所を選定,築城,
戦国時代は北条氏の持ち城だったが,あまり重要視されず,貧弱な小城に過ぎな
かった。秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると,徳川家康が入城。1604年,大
修築を開始した。藤堂高虎が城全体の縄張りを担当,加藤清正,池田輝政,黒田
長政,細川忠輿,浅野幸長など全国の大名を総動員して修築された城は,空前の
大城郭へと変貌した。江戸時代半ばの城下の人口は百万人をこえ,世界一の都市
であった。江戸城の外堀を順にたどると左巻きの渦巻状になっている。主に防衛
上の理由によるものだが,江戸の町全体が江戸城の延長線上に計画され,これは
環状線が発達する現在の東京に名残を残している。
平成11年6月28日

大友宗麟 (おおともそうりん)
豊後のボケ老人。…はっ、暴言だったか。
1530〜1587。右衛門督。本名義鎮。入道して宗麟。号はほかにも宗滴、休庵など
おおく、受洗名のドン・サンフランシスコ(マフィアのボスみたいや)も府蘭獅子
やら府蘭師司怙と当て字している。大友氏二十一代目。立花道雪ら多くの勇将達
の働きと彼自身の謀略などによって,1559年頃には豊前・豊後・筑前・筑後・肥
前・肥後に日向・伊予半国に及ぶ九州最大の勢力を誇った。しかしキリスト教に
入信してからは宗麟から往年の覇気がなくなり,家運は傾き始めた。日向耳川の
戦いで島津氏に敗れると没落,その領土は次々と侵食されていく。1586年,つい
に豊臣秀吉に援軍を請い,豊後一国を安堵されて大友家はかろうじて生き残った
が,翌年宗麟はペストにかかり,無念のうちに死んでしまった。徳川時代に子孫
は高家として残った。
キリシタン大名としてつとに有名。幼少期に母の死・家督相続争い(いわゆる二
階崩れの変)という二つの不幸を体験した彼は,ザビエルによって豊後に伝えら
れたキリスト教に大いに関心を示し,最終的にはこれに魂の救いを求めるように
なる。また,宣教師達の活動をよく保護し,日本へのキリスト教布教にも多大な
貢献をした。さらに1582年には有馬氏,大村氏などとともに「天正遣欧使節団」を
送っている。宗麟のキリスト教熱はとどまるところを知らず,ついには神の声が
聞こえ始め,「九州にキリスト教団を樹立する」などとまで言い出した。この野望
はすぐさま挫折したが,その緒戦であった耳川の戦いでは宗麟は軍勢を指揮する
ことなく後方でしきりに祈っていたため,味方の士気はさっぱりだったという。
また彼は聖人でもなく,かなりの好色だった。
平成11年6月28日

影武者 (かげむしゃ)
替え玉のこと。不意の難から身の安全をはかるために,戦国武将は自分と容姿の
似ている者に同じ装いをさせていた。
川中島合戦の謙信・信玄両雄の一騎討ちも,実は影武者同士の対戦だったとする
説がある。明智光秀は,娘婿の秀満を影武者にしていたのだが,彼には将器あり,
代わりに同郷の可児才蔵を用いている。影武者の影武者である。前田利家の影武
者を務めた前田慶次は,戦場で「われこそは利家の影武者なり」と大音声で駆けま
わったそうだ。自分で言ってはしょうがないが,おそらく利家への意趣返しだっ
たのだろう。
なかでも有名なのは武田信玄の影武者。映画にもなったが,影武者は弟逍遥軒信
康を含め数人いたそうだ。信玄の死後,影武者を立て喪は秘された。もっとも織
田方には信玄の死はばれていたが,確かめにやってきた北条家の板部岡江雪斎は
替え玉の信康にまんまと騙され,小田原では当分の間,信玄の生存は信じられて
いたという。一応,ご利益はあったらしい。
平成11年6月28日

北畠具教 (きたばたけとものり)
1528〜1578。伊勢国司。村上源氏の一流。長野氏、関氏と戦い,北畠氏は具教の
代に勢力を大きく伸ばした。ことに長野氏との戦いでは,二男具藤を長野藤定の
養子として,長野家を事実上乗っ取っている。大河内城を本拠として織田信長の
伊勢侵攻を迎え撃ったが講和し,1575年,信長の二男信雄に家督を譲り隠居。北
畠家は事実上,織田に乗っ取られたわけである。しかし翌年十一月,信長の意を
受けた家臣に暗殺される。
北畠氏は村上源氏の流れで,「神皇正統記」で有名な南朝きっての忠臣親房以来,
バリバリの武闘派公卿である。具教も剣豪塚原卜伝に剣を学んだという。武勇に
ものをいわせて攻め込んだ後,自分の息子を養子にさせるという作戦で,長野氏
をいぢめたら,今度は同じ方法で,自分が信長にいぢめられてしまったのだ。こ
ういうのを因果応報というのだろうか。とはいっても「具教が長野藤定を暗殺し
た」という話は聞かない。ワルぶりでも遅れを取っている。
平成11年6月28日

小牧・長久手の戦い
1584年の羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍の長期持久戦。秀吉の勢力拡大を
阻止するため家康は信長の次男信雄の出陣要請を受けて尾張に出兵した。対する
秀吉方の池田恒輿は犬山城を奪取,同じく森長可は羽黒へ進出したが家康の家臣
酒井忠次に反撃され退却した。羽黒での敗報を受けた秀吉は大阪を出陣,尾張の
楽田まで軍を進めた。家康は破却されていた小牧城を修復してそこを本陣とし,
羽柴軍に対した。両軍の対峙は長期に及んだが羽柴軍の池田恒輿は膠着状態を打
開しようと三河岡崎城の奇襲を献策,秀吉は納得しなかったが甥の秀次が総大将
を申し出たので渋々許可し,四月七日一万六千の軍勢を出陣させた。だが家康は
この行動をすぐに察知してひそかに羽柴軍の側背から近づき,翌日長久手で捕捉
急襲した。この攻撃で池田恒輿父子・森長可が討ち死に,秀次はほうほうの体で
退却した。攻撃が終わると家康は軍勢を直ちに小牧に戻し,秀吉に付け入る隙を
与えなかった。両軍は再び対峙することとなったが,この間秀吉は徳川方の切り
崩し工作を進める。その結果織田信雄が単独で秀吉と講和してしまったため家康
は戦う名目がなくなり,十一月二十一日浜松へ引き揚げた。
ということで,本能寺の変後の織田家の内紛はカタがついた。織田政権の後継の
座を確立した秀吉はホクホク顔で天下統一へ邁進,家康はふてくされ,上京の誘い
に応じず攻めるなら攻めてみろと居直ったそうだ。このあたりは天下人となった
英雄でも,オンナに振られたガキ同然の心理で可愛らしい。
平成11年6月28日

賎ヶ岳の戦い (しずがたけのたたかい)
1583年,羽柴秀吉が柴田勝家を滅ぼした戦い。山崎合戦,小牧・長久手の役と並
ぶ秀吉天下取りの第二ラウンドだが,規模や意義から考えれば,事実上の織田家
の後継者決定戦であり,天下分け目の決戦である。
信長亡き後の処置を決める清洲会議で,秀吉に主導権を奪われた勝家は滝川一益
とともに信長の三男信孝を立てて秀吉に対抗した。そこで秀吉は勝家が雪のため
領国の越前から動けない冬季に行動を開始,柴田勢の各個撃破に乗り出した。ま
ず軍勢を美濃に進めて岐阜城の信孝を戦わずして屈服させ,続けて伊勢長島城に
立て籠もる一益を包囲した。だが羽柴軍はこれを攻めあぐね,その間に柴田軍が
大雪を衝いて出陣して来たため秀吉は主力を近江へ移動させた。両軍が賎ヶ岳で
対峙していたところ信孝が再び挙兵したため秀吉は美濃へ移動、この隙を衝いて
勝家の猛将佐久間盛政が羽柴軍陣地を襲撃し,中川清秀を討ち取る。勝家は直ち
に帰還するよう盛政に命じたが,戦勝に酔う盛政はこれを聞かず滞陣していたと
ころ秀吉が驚異的なスピードで賎ヶ岳に進出,突出していた盛政隊を攻撃した。
盛政隊は攻勢をよく支えるも,右翼の柴田勝政隊が撃破され,これを契機に柴田
軍は崩壊,逃れた勝家は北ノ庄城で自刃。
七本槍の故事で示されるように,秀吉は戦勝の宣伝怠らず,天下の後継者が自分
であることをアピールした。
平成11年6月28日

堀秀政 (ほりひでまさ)
1553〜1590。久太郎。左衛門督。侍従。斎藤家臣だったが,信長の直臣に抜擢さ
れる。荒木村重攻め,武田との戦いなどで戦功を挙げた。本能寺の変の際には,
信長出陣の先駆けとして,秀吉の陣中にあった。そのまま秀吉に随従して光秀と
戦い,戦後は近江佐和山城に九万石を与えられる。その後も秀吉の有力武将とし
て佐々成政攻めや四国平定戦で勲功をあげ,小牧・長久手の役では榊原康政・大
須賀康高を破っている。越前北ノ庄18万石を得るも,小田原攻めの陣中に病没。
秀吉はその死をいたく惜しんだという。
こんな逸話がある。家臣に泣き面の男がいた。周囲がいやがり,暇を出されては
とすすめる。が,秀政は,「法事や葬儀の使者としてはうってつけだ。大名の家
にはいろいろな者がいていいではないか」と取り合わなかった。戦上手で知られ,
「名人久太郎」と呼ばれる。信長側近から,太閤政権の柱石となった点では蒲生
氏郷と好一対である。
平成11年6月28日

松前城 (まつまえじょう)
蝦夷南西端の城。蝦夷における唯一の豪族蠣崎氏が築城。1599年,城主義広は秀
吉に謁見し蝦夷朱印を受けた。のち,徳川政権が樹立すると置藩のため家康を尋
ね,城を大修築。蠣崎を松前と改めた。江戸時代,アイヌとの交易や海産物の専
売により,城下は大いに栄えたという。
日本最後の武士・土方歳三が晩年に活躍した舞台のひとつ。男なら涙なしには語
れないはずである。
平成11年6月28日

最上義光 (もがみよしあき)
1546〜1614。右京大夫。出羽守。左近衛大将。侍従。出羽の戦国武将。山形城主。
最上義光はその生涯で裏切り,中傷,騙まし討ちなど権謀の極みを尽くした。やな
奴と言えばかなりやな奴で,友達にはしたくないタイプだ。しかし良かろうが悪
かろうが生き残った者が勝ちの群雄割拠の時代にあって,義光が典型的な戦国武
将であることは間違いはない。
義光の父・最上十代義守は,傲岸不遜な義光を嫌い幽閉させた。そのため,義光は
父を強制的に隠居させ,跡目に立てられた弟・義時を攻め自殺させて家督を相続
している。跡目相続のいざこざが,すでに以後の義光の生涯を象徴しているとい
えよう。
1587年,庄内侵攻で伊達政宗と衝突。一触即発だった両家の武力決戦を回避させ
たのは,義光の妹で政宗の母義姫であった。のちに義姫は政宗毒殺未遂事件を起
こしているが,黒幕は義光といわれる。豊臣秀吉の覇権が奥州に及ぶと義光はい
ち早くその傘下となった。しかし義光は秀吉,家康どちらに転んでもいいように
ここでも謀略の限りを尽くした。まず家康に頼み,次男・家親を徳川家の人質に
差し出した。一方,娘・駒姫を関白・秀次の妾に差し出した。しかし秀吉による
秀次の誅殺という番狂わせのため,駒姫は三条河原で斬首されるという悲惨な運
命を辿った。父の謀略の被害者であろう。
関ヶ原では東軍に荷担。戦後,義光は家康の気を引くため,徳川の臣となっていた
家親に家督を継がせ,長男義康を殺害する。しかしこの無理な相続劇が祟り,家中
は大混乱。家親の死後の「最上騒動」により最上家は改易となる。
最上家の歴史は,義光の謀略の犠牲になった血縁者同士の血塗られた歴史であっ
た。この徹底した謀略が義光の凄みであり,また家名滅亡を招く決定的な弱点と
もなったのである。
平成11年6月28日

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