飯羽間城


私の自宅前に、竹で覆われた「城山」と呼ばれる小さな山があるが、これが「飯羽間城趾」です。
岐阜県恵那郡岩村町飯羽間上切地区。
いわゆる中世の山城であったが、武田方の手による落城以来再建されることはなかった。
築城は鎌倉時代の末期、元徳、元弘、正慶の時代といわれており、天正2年月27日に武田方の攻略により落城しています。
落城についての詳細は、武田の「甲陽軍艦」に記録されています。


飯羽間は飯峡、飯間、飯場、飯狭などという字で書いている文章もあるようですが、ここでは飯羽間に統一します。
飯羽間(いいはざま)は米が採れる山峡という意味だそうです。


飯羽間城は岩村城の子城です。
岩村城の創築は文治元年(1185年)に源頼朝の重臣・加藤景廉が遠山庄地頭になったのに始まり、景廉の子の景朝は地名をとって遠山と姓を改めました。
これが遠山家の始まりで、岩村を本家として有力な分家が次々と城を築いて勢力を伸ばして行きました。
世に遠山十八子城と呼びますが、飯羽間城もその一つで、岩村城に最も近く重要視されていました。

飯羽間遠山氏の発祥は年代的に確かめる資料はないが、古文書と出土品から推定して鎌倉時代の末期(1320年頃)には存在していたようです。
飯羽間遠山氏が飯羽間に居館を構え、まずは砦程度の山城を築きに掛かったものであろう。
そして年月をかけて、想像以上に大きな規模を持つ飯羽間城を構築したものです。

岩村城は日本三大山城の一つで、典型的な山城ですが、飯羽間城は山の中にありながら地形的には平山城(丘城)といってもよい。
城主は平時は居館におり、家臣もまた城の外に居住して、いざという時に城へ立て籠もったようです。
家臣の多くは平時は家族と共に農耕に従事していたと思われます。
後の戦国時代の悲劇までは、比較的平和な飯羽間遠山氏の時代が250年くらい続いたようです。



室町時代の遠山一族は室町将軍(足利氏)に出仕勤番しており、文献を見ると当時は将軍に直属する有力な奉公衆でした。
飯羽間遠山氏については次のような文献があります。
長享元年(1487年)に足利義尚将軍が六角氏を討ったとき、美濃勢はこれに従っており「常徳院御勅座当時左陣着到」(遠山氏族着到帳)に、飯間孫三郎の名があります。
当時は自分の住む土地名を氏称しているので飯羽間城主であることは間違いないようです。

飯羽間城主より更に古い資料として、上飯羽から出土した兜がある。
これは南北朝時代(1336−1392年)の部将の着用したものと推定されている二十六間筋兜です。
この兜は縦長梯形鉄板を26枚張り合わせた実戦向きのもので、装飾はあまりなく、一部に鍍金がしてありました。
この兜は何も物語ってくれませんが、飯羽間城の歴史には深い関わりのあるのは事実です。
ひとつはこの兜から逆算し、また岩村遠山氏の歴史から見て鎌倉末期には飯羽間城は存在していたのです。
これは控え目に推定した数字であって、実際は鎌倉時代の末期ではなく、もう少し前といってもよいようです。
この兜と飯羽間城落城とを結びつける事は時代的に無理があるようです。
落城は天正二年(1574年)で、室町時代を下って安土桃山時代(戦国時代)になっているからです。
兜の作製から落城までに200年以上の差があります。
この立派な兜を着用できるのは、飯羽間城主とみてよいと考えられます。
発掘の際に、おそらく他の小鉄片も出土したことでしょうが、偶然の発掘であり、発掘してから既に70年に近い歳月を経て、当時の状況も不明となってしまっております。



元亀元年(1570年・一説に元亀三年)に武田信玄の部将秋山伯耆守(ほうきのかみ)は二千五百余人の兵をひきつれて上村(上矢作町)へ侵入しました。
これを東濃の遠山一族連合軍と東三河(愛知県)の援兵、合わせて五千余人が上村で迎え撃ったのですが、秋山軍は強く三河勢が敗走、ついで遠山一族連合軍も敗れて大勢の戦死者を出しました。

これが世に言う上村合戦ですが、この戦いに飯羽間城主飯峡間右衛門佐が参加しています。
この頃の遠山一族の有力な家を遠山七頭、又は七遠山といいます。

〔七遠山〕
岩村遠山左衛門尉(遠山景任)・・・・・総本家
明照遠山久兵衛_(遠山友忠)
明知遠山民部__(遠山景行)
飯羽間遠山右衛門佐(遠山友信)
串原遠山右馬介_(遠山景男)
苗木遠山勘太郎_(遠山友勝)
安木遠山三郎左衛門(遠山某)

飯羽間遠山は七遠山に入っていますが、これは飯羽間が有力な城であったという事実になります。
なお、遠山三人衆というのは岩村遠山、明知遠山、苗木遠山をいいました。
上村合戦で明知遠山の遠山景行は戦死をしました。



上村合戦に出陣した飯羽間遠山右衛門佐は遠山友信としたのは、寛永諸家系図によるものだそうです。
飯羽間右衛門佐というのは個人の名前ではない。
飯羽間は地名、右衛門佐は公家の官職なのです。
七遠山に出てくる左衛門も左衛門尉もそうですから、本名は誰かという研究が必要となります。

寛永諸家系図による飯羽間城主は苗木城との結びつきがあり、次の通りです。
〔遠山友勝〕右衛門佐。もと飯場城に在す。織田信長の命により苗木城に移り、飯場城を嫡子友忠に譲った。
〔遠山友忠〕久兵衛尉。飯場城に在す。後に嫡子友信に城を譲り、明照(あでら)城に移り、後に苗木城に入った。
〔遠山友信〕右衛門佐。飯場城に在す。逆心により信長のため誅せられる。

これによって落城前の三代の飯羽間城主が判った事になるが、疑問もある。




飯羽間城の落城の様子は甲陽軍艦に詳しく書いてあるので引用をすると・・・・・・

織田信長は岩村城を武田の部将秋山伯耆守に奪われたのを無念に思っており、加えて自分の叔母にあたる遠山景任の 未亡人は秋山の妻となり、景任へ養子にやった自分の五男である御坊丸は人質となって甲府へ送られてしまったからで、 無念もこの上ありません。

信長は岩村城奪還の機会を狙って、岩村城周辺の遠山十八子城に密かに加勢を送り込んでいました。
飯羽間城にも十四騎の武者がきていました。

天正元年(1573年)武田信玄が死亡しはじめはこれを秘密にしてましたが、間もなく知れ渡ってしまいます。
その子武田勝頼は父に劣らぬ武将であることを示し、また東濃の形勢がよくないので、岩村城を確保する為に 天正二年(1574年)に甲府を出陣、高山を第一番に落とし、次に苗木城、串原、阿木、久須美と次々に攻落し、 十七番目が明知城でした。
この時、信長は岐阜から大軍を率いて応援に来ましたが、鶴岡山(山岡町)で武田方に迎撃されて負け、明知城は落城しました。

遠山十八子城のうち、最後に残ったのが飯羽間城です。
馬場信房や内藤昌豊などの家老衆は勝頼に対して、もう十七城も落としたから飯羽間の城攻めは次に廻して早々に 引き上げた方がよいと進言したが、新参者(新しく部下となった浪人衆)から、御奉公として攻め取らせてほしいと 願い出があったりして、武田軍が飯羽間城一つを攻めかねて引き上げたとあっては笑いものになること、残しておいては 敵勢の情報の拠点になることから、攻撃と決まったのです。

武田軍の精鋭が一気に侵攻し、城戸を打ち破り、織田信長から派遣されてきた十四騎の武者と城兵三百五十余人のすべて を討ち取り首を取って懸けました。
そして城主の飯羽間右衛門を本城の土蔵へ追い込んで、生け捕りにしたのです。

戦死した城兵三百五十余人は、すべてが武士ではなく、飯羽間の農民も城へ籠もって運命を共にしたと思われ、家は すべて焼き払われたと思われます。
それが当時のやり方なのです。
そこで生け捕りになった城主はどうなったかですが、甲陽軍艦にはこの点には触れておりません。




飯羽間右衛門佐は個人名ではなく、その本名は誰かということになりますが、信長公記も甲陽軍艦も飯羽間右衛門佐と しています。
これまでは落城の時の城主は遠山友信としてきましたが、一方大日本野史には織田信次と書いてあります。
信次は信長の父信秀の弟ですから、信長にとって叔父になります。
孫十郎ともいい、この人も右衛門尉で、大日本野史によると天正二年(1574年)四月、飯挿城(飯羽間城)を 守っていたが、武田勝頼と戦って捕らえられ、後に脱出して信長のもとへ帰ったが、同年九月、伊勢長島で討ち死にした とあります。

飯羽間城落城のとき、岩村城は武田方の秋山晴近が城主で、その夫人は遠山景任の未亡人であり、信次の妹ですから、 信長の叔母になります。
岩村城の奪還を狙う信長が飯羽間城へ叔父をおいたと考える事もできます。
岩村町史にも、上村合戦に参加したのは飯羽間城主飯峡間右衛門助(佐)信次としてあります。
厳邑府誌には諸説ありとして、両説をあげています。




「信長公記」巻七の三章は「明智の城いいばさま謀叛の事」とあり、この章に天正二年の武田勝頼の出陣、信長の 援軍のこと、鶴岡山の敗戦のことを記しています。
「城中(明智城)にて、いいばさま右衛門謀叛(むほん)候て、既に落去(落城)是非に及ばず」とあります。
是非に及ばずとは、もう手の打ちようがなかったから信長軍は引き上げたと、鶴岡山の敗戦をうまく表現しています。
この章をそのまま解釈すると「明智城はいいばさま右衛門が城内で叛乱を起こしたので落城した」ということになります。
いいばさまは、いいはざま(飯羽間)で濁点のうち誤りと思われます。
飯羽間右衛門が明智城で謀叛を起こすことは辻褄が合いません。

ところが信長公記の巻一五に「いいはざま右衛門尉御成敗の事」と、再び彼の名が出てくるのです。
要約すると「天正十年(1582年)四月、いいはざま右衛門尉を生き捕りにして信長公へ進上した。
先年(天正二年)明智の城で謀叛いたし、坂井越中守親類の者どもを多数討ち果たしたので、今度は 坂井越中守に命じて処刑させた。」とあるのです。
信長公記は信長の家臣である太田牛一が、その体験を通じてつぶさに書いた大書で、信長の伝記としては最も 信頼度の高い史料と言われています。

織田信次は天正二年に伊勢長島で戦死していますので信次説は薄くなります。



既に四百年余りを経過した事件ですが、飯羽間城主・遠山友信は飯羽間城の落城の時、土蔵に追い込まれて生け捕りに なり、武田方に寝返ったのではないでしょうか???
明智城の落城が最後で、十七番目が飯羽間城と仮定すると、遠山友信が明智城攻撃に手を貸したと考えられます。

明智城へは信長の援軍として十六騎来ており九騎が戦死し、七騎は逃げたとも捕らえられたともしておりますが、それが 坂井越中守の親類の者であったかも知れません。
甲陽軍艦を正しいとするなら、信長公記を書いた太田牛一は明智城と飯羽間城を取り違えていたかも知れません。



天正十年(1582年)に信長は大軍をもって安土城を出陣し、三月三十一日に岩村城へ着陣しました。
信長の子・信忠はすでに甲斐へ攻め込んでおり、この十一日に武田勝頼は天目山で自殺し武田は滅亡しました。
遠山友信は四月(三日か四日の頃)に生け捕りにされていますが甲斐国(山梨県)内でしょう。
飯羽間城は落城のあと復活することもなく、歴史の彼方へと消えていったのです。


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