

飯羽間(いいはざま)の城へ、信州川中島衆のうち三軍勢をもって攻めた。
馬場(美濃)、内藤(修理)をはじめ家老衆がそれぞれ申し上げた。
この飯羽間の攻めはこの度はとりやめて次に廻し、早々に引き上げた方がよいと勝頼公に諫め申し上げた。
あまり完全に攻めるのはどうかというのである。
そこでまた長坂長閑、跡部大炊助が申し上げる。
各家老衆の提案はいかがなものであろうか、やはり飯羽間の城一つばかり押さえてみても仕方のないことですと申すと、
勝頼公も長閑、大炊助の言うことも、もっともだと裁定を下す。
そこで牢人衆の名和無理介、井伊弥四右衛門、五味与三兵衛の三人をはじめ諸浪人が訴え願い出て、御代が替わったのを
機に浪人衆に、御奉公として飯羽間の城を攻め取らせて戴きたいと進言に及んだ。
これを聞いて、御旗本近習衆、外様近習衆のそれぞれが、御代替わりに、我等旗本勢がこの城を落としたいと言う。
そもそも、御家老衆が攻めはこれで十分とお考えになるのは一体どういうことか。
遠慮する態度は内々のことでよい。
数カ所の要害を皆落とした後で、この飯羽間だけを攻めないでそのままにして置くというのでは、敵勢の情報の拠点
となる。
それを浪人衆が攻め落とそうと進言するについては、統治に関する重要な所も浪人衆にさせるといった評判が諸国に
及んでは、勝頼公の御ためにどんなものかと案じ申す。
だから是非ともその城は御旗本勢に命ずべきだという。
これももっともだと長坂長閑、跡部大炊助も合点し、すぐに申し上げる。
勝頼公、熟慮されて御判断なされよという。
旗本の意向を聞いて城を攻め、取り巻いた先鋒勢は、あの城は御工夫なされて攻めるべきだと言っていたが、牢人衆、
近習衆が競って攻めたいと願い出ているので、先鋒勢は遅れては恥とばかり素早く攻勢に出て、瞬時のうちに
飯羽間を落としてしまった。
信長より派遣された警備衆十四騎の武者も一人残らず討ち取り、飯羽間右衛門を本城の蔵へと追い込んで生け捕って
差し上げたので、勝頼公は上機嫌であられた。
各々大小上下ともに武田勢は言い合ったものだ。
御代替わって飛ぶ鳥を落とす勢いの勝頼公、その御威勢はいさましいものだと。
そして足軽、小者どもも下級侍たちは歌をつくって唄ったものだ。
その歌とは”信長はいまみあてらやいひはざま、城をあけちとつげのくし原”(信長は、今見・明照(あでら)・
飯羽間・明智といった城を明け渡すまいと浅はかにも告げたが、串原の砦も落ちて、黄楊櫛(つげぐし)のようだ)
こう謡ったが、甲州・信濃の下劣な言葉で、”あてら”は浅はかなことをいうので、今見・明照といった城に
かけて言ったのである。
四月上旬に御帰陣となった。
