沖縄小史
[古代の沖縄]
かつて沖縄も日本本土も大陸と陸続きであったが、たび重なる地殻変動で約1万年くらい前に
現在の形が整ったといわれる。
琉球列島にはおよそ3万2千年前に人が住んでいたことが考古学上、立証されている。
[グスク時代]
歴史的には9世紀ごろから各地にアジと呼ばれる首長が登場し、城を築いて勢力争いを繰り返した。
14世紀の初めの沖縄本島は他を圧制した3人のアジによって支配されるようになった。
北部に今帰仁城(北山)、中部に浦添城(中山)、南部に島尻大里城(南山)を拠点にしてそれぞれ
覇を競った。
中国ではこの3つの勢力を三山と呼んだ。
1372年、中山の王「察度」は中国・明朝の皇帝の求めに応じてはじめて入貢したが、大成功でこの
時から正式に国交関係が生まれた。
南山、北山も相ついで入貢したが、察度王は朝鮮、安南、シャムなどの交易にとどまらず、中国留学生
の派遣、技術職の中国人を迎え入れるなど学問・文化を大いに広めた。
[琉球王国]
15世紀の初め、佐敷のアジ尚巴志(しょうはし)はこの三山を滅し、父の思紹を王位につけて
国家統一をはかった。
明国より「尚」姓を賜り第一尚氏として中央集権制の確率へ第一歩を踏み出すが、内紛が相次ぎ
ついに1469年、尚徳王の時、伊是名島から出た金丸のクーデターに遭い第一尚氏は7代64年
で絶えた。
民衆の支援を得て金丸はその名も尚円と改め王位にのぼった。
第二尚氏王朝の幕開けである。
新王朝は、反乱を防止するため地方のアジたちの居宅を首里城周辺に移させ、武器をすべて取り
あげるなど支配体制を強化させた。
これによって第二尚氏は明治維新まで19代410年も続く。
特に4代の尚清王の頃には、奄美大島から八重山諸島まで、全島を支配し独立国をゆるぎないもの
にした。
又、貿易もさかんで、日本、中国、南方の中継貿易地として大いに潤った。
[島津の侵攻]
この間、薩摩の島津氏は明国との交易を望んで琉球国に仲介を請うたが、受け入れられなかったので、
豊臣秀吉、徳川家康の命に背いたという名目で1609年(慶長14年)、3000余の兵と軍船
100隻を繰り出し琉球を攻めた。
100年もの間武器を持たなかった琉球と戦国時代をくぐり抜けてきた島津軍とでは最初から勝負に
ならなかった。
ついに琉球王府は本島と宮古・八重山諸島の支配は認められたものの薩摩藩への従属を強いられた。
その後250年におよぶ島津の過酷な税制と差別によって琉球王府は財政が窮乏し、人々は飢え
苦しんだ。
一方、こうした情勢下にもかかわらず、文芸、芸能、工芸など沖縄文化は第2の隆盛期を迎え多くの
才人を世に出した。
[沖縄県の誕生]
廃藩置県を行った明治新政府は、明治12年琉球処分を強行し、ここに47番目の沖縄県が誕生
した。
しかし住民の生活は相変わらず飢餓から抜け出る事が出来ず、海外、県外への出稼ぎの仕送りで
県経済が支えられている状態が続いた。
[沖縄戦と戦後]
昭和20年3月26日慶良間諸島の砲撃戦で始まった沖縄戦は、米軍側が約1500隻の軍艦と
延べ54万8000人の兵員を投入、これに対して日本軍は現地召集した防衛隊員、学徒隊員
約2万人を含めて11万1000余人で死守。
が南部での激戦の末、県民12万余を含む20万余が戦死。
ついに9月7日日本軍の無条件降伏調印で戦争の幕は閉じた。
この沖縄戦の最大の特徴は、軍人よりも一般住民の犠牲者がはるかに上回っていたということだ。
日本の無条件降伏で以後27年間沖縄は米軍の統治下に入っていたが、昭和47年5月念願の祖国
復帰が実現。
だが、人々の期待とはうらはらに日本全国の米軍基地面積の53%が沖縄に集中、実弾演習や軍機
の航空騒音、墜落事故など、逃げ場のない小さな島で、いまなお住民は不安と「同居」の生活を
強いられている。
だが島民は明るい。
「唐ぬ世から大和ぬ世、大和ぬ世からアメリカ世、アメリカ世からまた大和ぬ世」と移り変わるが、
しかしウチナーンチュ(沖縄人)の心意気はいつの世も「沖縄は沖縄」ワシタシマ(わが島)なので
ある。
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