1999年5月13日から15日にかけて2泊3日の会社の旅行で沖縄へ行って来ました。沖縄は12日から既に梅雨に入っており、天候の心配をしていたが結局3日目の午後に30分程度 スコールのような雨が降っただけで、何とか雨に降られずに済んだ。 那覇空港は6月から新ターミナルへ移転するとのことで、古い国内線ターミナルは特に狭いようで、 到着した時は他からの便も同じような時刻に到着した為、出口付近は大変な混雑となりそのほとんどが 私達のような団体であった。 私達を乗せた「琉球バス」はスケジュールに合わせて早速最初の目的地「万座毛」へ向かった。 |
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那覇の市内はどこでも見られる相変わらずの工事があちこちに見られるが、高速道路とモノレールに
今は力が入っているようである。国道58号線を名護市へ向かって走る。 30分も走ると米軍の「嘉手納基地」の脇を通ることになる。 国道からはアプローチの為の誘導灯とか燃料タンクと思われる設備が確認できる。 |
私達の今晩の宿泊地である恩納村のムーンビーチを通り過ぎる。 時期が早すぎるのか、海に入っている人はまだいない。 |
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「万座毛」は、終戦真近に民間人が自殺するため飛び込む衝撃的な映像に残っているような場所である。天然芝が一面に広がり、やがて琉球石灰岩の断崖となって海に落ちている。 打ち寄せる波と珊瑚礁の青い海が、ひときわ美しい。 |
しかし、ここはリゾート地でもある。 この万座ビーチには「万座ビーチホテル」がある。 私達はここをUターンして、初日の宿泊地「ホテル・ムーンビーチ」へ58号線を戻った。 一日目はこうして終わった。 |
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二日目は、国道58号線を更に北上、名護市を通り過ぎ、昭和50年7月から半年間に渡り開催された
「沖縄海洋博覧会」の跡地に造られた「沖縄記念公園」へ。私は今ではほとんど振り向かれなくなった「海洋博」の花形「アクアポリス」を見に行った。 私はそこに30分以上いたが、その間誰もそこへは来なかったのは少しさみしい気がした。 |
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現在は入場するための橋の入り口がしっかり鍵が懸けられ封鎖されており、その本体から橋から塗装は
剥げかかり、全く当時の華やかさは見受けられず哀れでさえあった。帰途で寄った「植物園」では、さすがに南洋の植物ばかりが見受けられた。 |
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そして、那覇へ戻って「首里城」へ。琉球王国当時、政治行政、外交イベントの舞台として機能を発揮していた首里城正殿が建つ。 1945年の沖縄戦で全焼したが、沖縄の本土復帰20周年記念事業として47年ぶりに復元、 周辺も整備されて公園化された。 首里城の周りは、万里の長城のような城壁で囲まれている。 |
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首里城は外郭と内郭からなり、堅固な石積みの外城壁は高さ6−16m、厚さ4mで首里城第一門 (正門)の歓会門、女官の通用門として使われていた久慶門など4つの石造アーチ門がある。 内郭には大小8つの門がある。 写真は「久慶門」の内側と外側。 現在は城郭内観覧順路の出口となっている。 |
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更に「漏刻門」(ろうこくもん)。 楼内の水時計で時刻を計り、太鼓で時間を報じたことが 名前の由来。 外城壁は本当に頑強。 二日目は、これで終了した。 |
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三日目は昭和42年3月、愛媛大学学術探検部が全容を明らかにした洞窟「玉先洞」の見学から 始まった。 東洋で最も美しい鍾乳洞といわれ、珊瑚礁から生まれたこの鍾乳洞は、全長5kmという日本 第二を誇る長さ。 現在、観光洞としては890mが公開されている。 |
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そして「ひめゆりの塔」を見学した後、平和記念公園でバスを降り、全員徒歩で「摩文仁の丘」を のぼります。 激しかった沖縄戦終焉の地に戦跡を集め慰霊後とした「沖縄戦跡国定公園」です。 「国立沖縄戦没者墓苑」及び「岐阜県の塔」をお参り。 |
海抜87mの摩文仁の丘頂上にある「黎明の塔」へ。 沖縄戦の最高司令官であった第32軍司令官牛島満中将と長勇参謀長の塔碑。 二人はこの塔の下の、軍司令部になっていた洞穴で敗戦責任をとって自決した。 碑を後ろから見ると、切腹の形のモニュメントとなっている。 その後、ショッピングセンターで時間調節を行った後、夕方の飛行機にて小牧空港へ戻り、 会社へ到着したのは午後10時頃でした。 |